
1981
April
Spotlight Article [“Hisashi Katsuta’s Biography of Japanese Voice Actors #1“, My Anime]:
果てしなく広がった高梁畑の向こ うに、真っ赤に燃えた夕陽が沈もう としている。 乾燥しきった大地から舞い上がる 土埃のせいだろうか、遠い地平線の 上でそれはゆらゆらと揺れていた。 詰めこめるだけ詰めこんだ大きな リュックを背負い、持てる限りの荷 物を手にした母と子が、その沈みゆ 大きな夕陽を見上げていた。 あの夕陽の下あたり、奉天の近く の、小高い丘の上に、二人の弟達が 眠っているのだ。 わずか三月ほどのうちに、事故と 病気で二人の子を亡くした母は、ま 悪夢を見続けているかのように、 言葉もなく、じっとその場に立ちつ くしていた。 やがて、母と子はくるりと踵をか えすと、茜色に染まった満州(現、 中国の東北地区)の空を背にして、 南東に向けて歩き始めた。 もう、あの奉天にも、住みな れた鞍山にも再び帰ってくることは あるまい。 靴からはみ出した親 指の皮がむけて痛かった。 とみやまくにちか -昭和二十年の夏、富山邦親、 七歳の時のことである。 遠くの方で、ソビエト軍の連 射するマンドリン (自動小銃)とト ムソン銃が、バリバリとカン高い響 きを上げ、不協和音をつくりだして いた。 頼みとする精鋭関東軍に見捨てら れ、敗戦の悲哀を背負わされて、た だひたすら故国をめざして落ちてい 日本人を、それはせき立てるよう にけたたましくがなり立てていた。
歓声が一段と激しくなった。観客 の口ぐちに叫ぶ声がただワーワーと こだまして、劇場内を圧している。
「ケイさーん!」
「トミヤマさーん!」
昭和五十四年四月五日、東京・日 劇の広い観客席を埋めつくした二千 人の女性客の黄色い声が、かたまり となって、ステージ上の富山敬を迎える。 五色の紙テープがステージめがけ て、あとからあとから投げられる。 それが空中に舞ってからみ合い、も つれて観客の頭上を色あざやかにお おった。 連日、日劇を満杯にさせ、興行師 を驚かせた「声優フェスティバル・ ボイス・ボイス・ボイス」の初日、 プログラムは進行し、場内は興奮の るつぼと化していた。 熱狂的な歓声に応えて、精いっぱ い歌い終わった彼は、ホッと一息を いれた。顔を上げると、巨大なアー ク・スポットが自分をフォローして いる。 キラキラと輝いてまばゆい。あの 満州で見た夕陽のように、それはゆ らゆらと燃えていた。 あれから、もう三十年の歳月 がたった。貧乏神ともすっかり仲良 しになっていた俺が、何で突然、こ んな観声の渦 の中に立たさ れているのだ ろう。 この強烈な スポットライ トは俺には眩 しすぎる と、彼は当惑 した。そ うだ、あの時 も、こんなに 眩しかった。 彼の心は 富山敬から、 富山邦親へとかえっていく。
貨物船の船底に押し込められたま ま、陽を仰ぐこともなく、幾昼夜の のち、やっとの思いで祖国日本にた どり着くことができた。 初めて見る日本。舞鶴港の船上か ら見上げた、あの時のめくるめくよ うな陽の光。 舞鶴からは汽車を乗り継ぎ、宮崎 県高岡へ。客車は人で溢れ、デッキ や機関車にまで復員服姿の男達がぶ ら下がっていた。 走りゆく窓外の景色は、満州のそ れとは全く違っていた。緑の谷間を 縫い高原を越えていく。 のうまさ。 高岡の駅からバスに揺 られて一時間、祖父が待 っている神社の森の見え る停留所に降りた時、母 はしっかと彼を抱きしめ て泣いた。やっと帰って 来たのだ。 ここが父の生まれた故 郷。この森が、この川が 父のふるさとなのだ。 その神社の宮司である 祖父が、二人をやさしく 迎えてくれた。久しぶり に食べる畳の上での食事 それから二年後、シベリアに抑留 されていた父が、毛布を縫い合わせ 外套を着て、重い軍靴を引きずる ようにして帰って来た。 敗戦後、やっと富山家にも幸福が訪 れた。富山敬、九歳の時のことだった。 一家は、生活を立て直すために上京 を決意し、東京へ向かって旅立つ…。 そして東京・世田谷での、間借り生活 が始まった。家の経済は決して楽では なかったのに、正則中学校から高校に 進んだころ、いつしか彼は演劇に熱中 し始め、東宝児童劇団に飛び込んでし まっていた。兄弟のいない寂しさをま ぎらわすためであったのかも知れない。 初舞台は、水沢草田夫作「金のうぐ いす」の、海賊クロ次の役。芝居好き 若者達と舞台をつくりあげていく楽 しさ。彼はますます演劇の世界にどっ ぷりとつかっていく……。 大学へ進むことを考えながら、演劇 に熱中のあまり、とうとう一浪の身と なってしまった。 やはり大学へは行くべきだなと 考え直し、受験勉強にとりかかる。そ して翌年に、日大芸術学部演劇科に入 学。彼の演劇熱はますますエスカレー トするばかり。 昭和三十五年、当時、若手新劇俳優 で結成していた劇団〝葦”に研究生と して入団。「三文オペラ」の公演で、研 究生から抜擢され、与太者の役がつい た。 舞台をやったからといって、それで 食べていけるものではない。当時の 新劇の公演ではギャランティはもら えない。幹部の人達は、ラジオやテ レビに出演して収入があるが、若手 連中や研究生は余暇にアルバイトを しなければ、その日その日を食いつ ないでいけない・・・・・・。 彼もいろいろなアルバイトをやっ た。バーテン、キャバレーのボーイ に客の呼び込み。そしてサンドイッ チマン。日銭が得られるものは、何 でもやった。 時給が百二十円で、一日五時間働 いて六百円。それで何とか飯が食え て、タバコが吸えた。 どんなにつらいつらいアルバイト でも、それで芝居がつづけられるの なら……と、大学も中退して、がん ばってみたら、なんと頼りにする劇 団は赤字公演がつづいて、あっとい う間につぶれて解散。研究生は、 またたく間に放り出された。 ただただ、食うがためのアルバイ トの日々がつづく。飯は食えても、 演劇への情熱のはけ口を絶たれるほ うが、ずうっとつらいことを彼はこ の時知った。 東京・四谷の喫茶店で、ウェイター をやっていた、そんなある日、その 店へひょっこり入って来たのが劇団 の大先輩で、声優としても活 躍していた千葉順二氏だった。彼も 驚いたが、千葉先輩も驚いた。 仲間を統合して”河の会”を結成す るから君も入らないか・・・と、誘われ た時の嬉しさ。この時の先輩の一言 が、自分をドン底から救い上げてく れたことを、彼は今も忘れてはいな いー。 その千葉順二氏との邂逅が、後に 声優スター、富山敬を生み出すこと になろうとは、その時の彼自身はも ちろん、周囲の誰一人想像すること はできなかった。 千葉氏は当時、すでに外国映画や アニメの声を演ずる声優として、売 れっ子であった。 この時、昭和四十年。すでに国産 テレビアニメ第一号「鉄腕アトム」 (昭和38年1月1日~41年12月)が 放映開始されて三年目、オープニン グのそのテーマミュージックは街の あちこちに流れ、アニメに対する人 気は日をおって高まりつつあった。 “河の会”のメンバーも、アニメ や洋画の声に活躍していた。「アト ム」を追いかけるようにして始まっ 「鉄人28号」(昭和38年10月27日~ 42年5月22日)の主役正太郎は、〝河 の会”の高橋和枝女史が演じていた。 富山敬は、この「鉄人28号」に、 初めてアニメのセミレギュラーとし て出演できることになった。といっ ても彼は、通行人Aとか警官Bとか 毎回違う、つまり端役引受人…。 でも、どんな役でも、出されても らえることの喜び、役者として仕事 のできる喜びは、苦労した人間でな ければわかるまい・・・。 俳優になって、初めて定収入が得 られるようになった感激を、彼は未 だに忘れることはできない。 そして昭和四十三年九月、彼はつ いに主役をつかんだ。オーディ ションで数多くの先輩達を抜いて、 「佐武と市」(昭和43年10月3日~ 44年9月24日)の、佐武役を射止め たのだ。これを機に、この番組の終 了と同時に、彼は引きつづき二本の 主役についた。「男一匹ガキ大将」(昭 和44年9月2日~45年3月28日)の 万吉と、「タイガーマスク」(昭和44年 10月2日~46年9月30日)の伊達直 人である。 それからあとは、順風に乗った帆船 のように、快調に主役を始め、重要な キャラクターを演じつづける そして「宇宙戦艦ヤマト」の古代進 は、番組の人気とあいまって彼の地位 を決定的なものにし、声優・富山敬の 名はアニメファンなら誰知らぬ者もな くなったー。
昭和四十八年、劇団の事務員、和江 さんと結婚。長女絵麻ちゃんに、明彦 くん裕介くんの双子の兄弟も加えて、 幸せな家庭もできた。 役者になって、もうかれこれ二 十五年。何とか飯が食えるようになっ て十五年。気がついてみたら、もう四 十歳を過ぎていた。 現在、数多くのアニメ番組、ラジオ のDJと、休む暇もないが、これから は子供達と過ごす時間を大切にしたい と彼はいう。 子供達の手を引きながら、真っ赤な 夕陽に向かって、「おーい、俺はやった ぜ!」と力いっぱい、叫ばせてやりた いものだ。
