Yoshinori Kishimoto

1982

December

Memorial [My Anime]:

去る十月二日、日本サンライズの代表取 締役社長 岸本吉功氏が心不全のために急 逝されました。弊誌では、高千穂遙氏の追 悼文をもって氏の偉大な足跡をしのぶとと もに、哀悼の意にかえさせていただきます。 氏の御冥福を心からお祈りいたします。 ぼくのように他人の顔や名前を覚えるのが 苦手な者にとって、岸本吉功さんとの出会い はすでに忘却の彼方にあり、いつどこで最初 に言葉をかわしたのかは、もうまったく記憶 にはない。 ただ、これだけははっきりしていることだ が、ぼくが岸本さんと二人きりで会い、仕事 の打ち合わせをしたのは、わずかに一回きり だということである。他の人を交えて話をし たのも、おそらく五回とはないだろう。 さほど親密な間柄ではなかったのだ。 しかし、ある意味では岸本さんは、ぼくと きわめて密接なつながりを持っていた。いさ さか極論になるが、ぼくの一部分をそっくり 岸本さんに預けてあったといってもいい。 ぼくの発表した作品のアニメ化権は、日本 サンライズに委託してあるのだ。 ぼくが現在、唯一信頼し、関係を保ってい アニメ制作会社は、日本サンライズのみで ある(スタジオぬえは、まったく別。ぼくは ぬえの役員だが、SF作家としての高千穂遙 はスタジオぬえからは独立している)。 そして岸本さんは、日本サンライズの社長 だった。 日本サンライズが天国のような会社だとは、 ぼくは思っていない。むしろ、その逆で、か なり根性を据えてかからねばならない大変な 会社である。小さな花はなんとかいくつか咲 くが、それがなかなか大きな実になってくれ ないのだ。実にならないという結果は、ぼく たちにいうにいわれぬ無力感を抱かせた。 しかし、問題はあきれるほどの難産の末に 咲いた花が、けっこう魅力的で美しいという ことだった。 これが、ぼくを日本サンライズにひきとど める最大の要因となった。 日本サンライズには花を育てる名手がいた。 富野喜幸、長浜忠夫、安彦良和の三氏である。 それぞれ立場、思想の異なる三氏だが、ぼく がかれらから得たものは驚くほど大きい。そ して何よりも、注目すべきことは、かれらが 日本サンライズで長く仕事をつづけていると いう事実だった。 労働面についてのみいうならば、はっきり いって日本サンライズの条件はあまり良くな い。企画は滅多に通らないし、通っても五時 台などという信じがたい時間帯だし、予算も 耳を疑うほどに低かった。 なのにかれらは日本サンライズにいるのだ。 いや、いるだけでなく、作品としてのエポッ クをきわめようとまでしていた。 日本サンライズの日本サンライズたるとこ ろを見たのは、「ザンボット3」の制作過程で のことだった。 異例の時間帯、低予算、地方キー局。 いい 材料がひとつもなかったこの作品の条件を逆 手にとり、富野喜幸氏をトップとするこの作 品のスタッフは常識破りの大バクチを打った。 一貫したストーリーを事前に確立し、しかも 主人公のグループをアンチ・ヒーローとして 描いたのだ。そしてつくったスタッフもスタ ッフなら、この設定を呑んだ会社も会社であ る。「ザンボット3」は制作され、放映された。 これが、いかに画期的な名作であったかは、 見た人ならばすべて御存知であろう。 長浜忠夫氏も存分に腕を揮った。「闘将ダイ モス」ではついにロボットが三十分間一度も 登場しない話をつくるという快挙をやっての けた。作品が一つの完結したストーリーを持 つのならば、ロボットものとはいえ、ロボッ トが登場しない回があっても不思議ではない のだが、しかし、これはやはりタブーであっ た。そのタブーを長浜氏はあえて破り、日本 サンライズはこれを認めたのである(「ダイモ ス」は東映の下請け作業だったから、あつれ きは想像以上にあったのではないかと思われ る)。 いってみれば、日本サンライズは破天荒な 会社だった。条件面は破格に悪かったが、か わりに与えてくれる機会も、また破格であっ た。 こういった会社の性格は、その要となる社 長の性格によって決まる。良くも悪くも岸本 さんのキャラクターが、会社のカラーに反映 されていたのだ。それは、クリエイターにし てみれば、意外になじみやすい性格であった。 読者の皆さんにはとくに言っておきたい。ク リエイターは、金のためだけではけっして良 い仕事をしない。クリエイターは自分の創作 意欲の具象化のためにのみ良い仕事をしよう とする。日本サンライズは、それをさせてく れた。皆さんが高く評価している多くの作品 は、岸本吉功という人が社長をやっていた日 本サンライズがあってこそ生まれたのである。 これを絶対に知っていてほしい。 演出家もアニメーターもライターも仕上げ の人も、すべて素晴らしいクリエイターたち だ。だが、かれらクリエイターたちが素晴ら しい作品をこの世に残すためには、岸本吉切 という人がいなければならなかったのだ。 通夜の二日後、岸本さんと「クラッシャー ジョウ」とのことを聞かされた。しばらくプ ロデューサー業から遠ざかっていた岸本さん だが、死の直前まで、「クラッシャージョウ」 のアニメ化は俺がやるのだ、と言っていたそ うである。そういえば、ただ一度、岸本さん と二人で打ち合わせをしたのも、「クラッシャ ージョウ」のレコード化の件であった(アニ メ化は、ここから発展した)。 病床で、ぼくの書いたシナリオを読み、安 彦さんの切ったコンテを検討して、岸本さん はアニメ映画「クラッシャージョウ」の完成 に思いを馳せていた。 「クラッシャージョウ」は、岸本さんの遺作 となる。

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