
1979
January
Comment [Animage]:
「さらば宇宙戦艦ヤマト」のヒツトの原因は、いろんな角度から見られます。「ヤマト」はマンガではなく、SF冒険アクションドラマだということ、中・高生であるミドルティーンを中心としたアニメは画期的で前例がない。あくまでも、少年らしく可能性を追求してみようというのがテーマであり、若者の生きざま、挑戦、愛が映画を見てくれた人の共感をよんだのでしょう。松本零士さんの親しみやすいキャラクター、音楽の宮川泰さんなど一流のスタッフの起用もヒットの要因ですが、このドラマの最大のキャラクターは、空を飛ぶ旧大和であり、戦艦が空を飛ぶという企画そのものの成功だと思います。今後はミュージカル・アニメや海洋ドラマを作ってみたいと思っています。
1980
September
Comment [for “Be Forever Yamato”, Animage]: そもそもヤマトは、大作映画として70ミリでやりたかったんですね。ボクとしては、親子連れで、しかも大きな劇場で余裕をもって見ていただきたいと考え、なんとか70ミリで時間をかけて作ろうと思っていたのですが・・・・・・諸般の事情により、どうしてもこの夏に公開せねばならないということから、たいへん残念でしたけど、今回、あきらめざるをえなかったわけなんです。このねらいというものは、70″にしても、シネスコにしても、画面の横の広がりがビスタにくらべてかなり広い。画面そのものに奥ゆきが出て、ヤマトの迫力がさらに出てくるんですね。また、黒色銀河を越えた人類未踏の地の風景というものを”スキャニメート”を使って3段マルチ以上の立体的な奥ゆきを表現するわけなんですが、これはビスタじゃあ追いきれないわけです。なんとか大きな画面にする方法はないかと、考えついたのが、今回の方式なんです。
1981
April
Spotlight Article [“My Anime Life”, My Anime]:
私の暗黒時代は昭 和50年の春だった」
今、アニメは花ざかりである。空 前のブームのおかげで、アニメ関係 者は我が世の春を謳歌している。 事 実、アニメーターの生活もずいぶん 向上した。それはそれで結構なこと と思う。報われて当然以上のことを しているのに、まったく報われない というアニメ残酷物語〟の世界に 生きてきただけに、業界の著しい盛 況は我がことのように嬉しい。しか し、その反面、むずかしい時代に入 ったなという気がする今日この頃で ある。 とにかく、ブーム到来前のアニメ 製作に携わっていた頃、「冬来たりな ば、春遠からじ・・・」 を夢見て苦闘し ていた。それが昨日のように思われ、 一挙に夏が来たという想いである。 しかも、いつのまにか私は、アニメ ブームの火つけ役ということになっ てしまった。 「宇宙戦艦ヤマト」が、このアニ メブームの発火点になったとは、よ くいわれることである。たしかに、 その通りだろう。しかし、それは結 果であって、TV版・第一作の放映 時に、まさかそうなるとは想像すら できなかったのである。もちろん、 私自身は「宇宙戦艦ヤマト」に全力 投球をしていた。しかし、それに賭 ける私の気持ちとは、まったく裏腹の、 低い視聴率で惨憺たるものだったの である。 「宇宙戦艦ヤマト」に限らず、ど ういうわけか、それまでも私の手が けたTVアニメ作品は(すべてとい ってよいが)、視聴率がわるかった。 たとえば、昭和44年にものしたTV アニメ第一作の「海のトリトン」、続 いて放った「ワンサくん」が、その 好例である。そんな次第で、昭和4 年の「宇宙戦艦ヤマト」がだめだっ たら、この世界にいられなくなると いう心境で、それこそ精魂こめて製 作にあたった。ところが、フタをあ けてみたら、やっぱり視聴率の壁は 崩せなかった。その時のショックは、 ちょっと筆舌に尽しがたい。 もう俺には才能がないんだ!」 心の底から思いこんでしまった ほどである。どこの局へ行っても、 「あいつは4、6、8のチャンネル を、全部食いつぶした男だ・・・」とい われたわけで、まったく立場がなか った。とにもかくにも、50年の春先 には39本になっているはずのヤマト が、26本で打ちきりになったときの 絶望感といったらなかった。 この気持ちは私だけでなかった。松 本零士氏にしても、豊田有恒氏にし ても、その他、今、第一線で活躍し ているアニメーターにしても、この 作品が当たらないということは絶対 にありえないという気持ちがあった。 それだけにスタッフ一同の挫折感は 痛々しいほどであった。
「アニメへの傾斜は “口惜しさ”から・・・」
こんなことを記すと、「そんな気持 ちになるくらいなら、アニメの世界に 入らなければよかったではないか」 と思う読者もいることだろう。 その通りだ。私自身も、今の読者 ぐらいの時代には、まさかアニメの 世界に入るなどとは夢にも考えてい なかった。ただ、私の中学・高校時 代(昭和22~28年)は、アメリカ の映画がどっと入ってきたわけで、 その頃の中・高校生が観に行けるも のといえば、ディズニーものとSF ものだけといってもよかった。ちょ うど娯楽に飢えていた時代だけに、 そういうものは端から観ていった。 それでも娯楽が足らず、必死になっ て本を読み漁ったものである。ちな みに、「チボー家の人々」なんかを読 んだのも、たしか私が中学三年の時 であった。 テレビはまだなく、ビジュアルな ものといえば映画と漫画だけの時代 だった。それだけに、活字ひとつに しても、自分の頭の中でビジュアル 化できるタイプと、活字を追うだけ のタイプとがいたような気がする。 私は、わりと夢想家のほうで、活字 で読んだものをビジュアル化させる ことが好きなほうだった。 今、振り返ってみると、本格的に SFが好きになったのは手塚治虫先 生の「ロスト・ワールド」「来るべき 世界」「メトロポリス」のSF三部作 に接してからのような気がしてなら ない。ところが、夢想家がすぎて、 自分が他の人間を演ずる芝居の方向 に行ってしまった。 ちょっと脇道にそれるが、私は頭 の中だけでいろいろ考えるよりも、 すぐに行動に移すタイプである。一 回は自分でやってみないと気がすま ない。いつの時代でも、試行錯誤と 行動力というのは若者の特権である。 だから、十代で若いと思いこんでい 若者をみても、トライアル・アン エラーができないやつは、若者 だと思えない。逆に、三十代に入っ ている人でも、行動力があればすご 若さを感じられる。私自身がそう だから、実際に脇道へ行ってしまっ たが、それについてはまったく後悔 していない。 話を元へ戻そう。私がアニメの世 界に入ったきっかけは、手塚治虫先 生のゼネラル・マネージャーになっ たことである。しかし、その時もま だ、アニメのプロデューサーになろ うなどと思っていたわけではなかっ た。それよりも、彼自身をいかに活 かすかということを考えなければな らないと思った。 そして、 虫プロへ 入ると、いきなり「私の作品を売っ てください」ということになった。 これも彼を活かす一つの道だと思い、 たまたま「ふしぎなメルモ」という 作品があったので、それを大阪の朝 日放送にあっさり売りこんだわけで ある。ところが、この作品の視聴率 が想像以上にわるかった。それだけ ならまだしも、最後は私自身がある いということになってしまった。自 分自身が創造し、プロデュースした もので、それがだめというなら納得 できるが、まったくその逆である。 つまり、他人が創ったものをただ 単に売っただけにもかかわらず、そ の作品の評価まで売った人間に課せ られるという不合理に、正直言って 私は泣くに泣けぬ心境であった。 も ともと音楽制作と舞台のほうでプロ デュース経験があっただけに、その 時はふざけるな・・・”という気持ちが 強かった。従って、私がこの世界に 入ったのは、単純にアニメーション が好きで好きでたまらないといった 理由よりも、むしろ口惜しさ”の ほうであった。その気持ちが、私をこ の世界に傾斜させたのである。
「はじめてのアニメ プロデュース作品」
そんないきさつから、自分自身の 資質に合うものがあれば、悔いのな アニメ作品を創ろうと決意だけが 固まっていった。そんな折り、「青い トリトン」が新聞連載された。 漫画 としては尻切れトンボに終わった作 品だが、舞台は海で夢もロマンもあ る。これを自分なりに再構成し、起 承転結をつけて、目的ドラマにして みようと思いたった。 その頃、アニメーションは漫画の 動 くものという考えかた、見かたが まだまだ強く残っていた。当然、対 象年代も、小学校低学年あたりとみ るのがあたりまえだった。だから、 ドラマづくりにおいても、子どもの 注意力から演繹して一話一話完結し ているほうが間違いのないつくりか たと思われていた。それに対して、 私は一話完結を踏襲しても、〝母探し” という最終目標にたえず向かってい くドラマづくりを図ったのである。 一話完結的に見せながら、実際には 27本で完結するという目的ドラマに したのは、ことアニメに関して私が はじめてだと思う。 この「海のトリトン」は名実とも にはじめてのプロデュース作品であ りながら、ただひとつ失敗したこと は、対象年代層を誤認したことであ った。つまり、この作品において私 は小学校の低学年を中心視聴層にお いてしまったのである。ところが、 実際に放映されると、この作品につ いたファンはほとんど中学生だった。 ちょうど今の「機動戦士ガンダム」 と同じ状況を呈したのである。 キャ ラクターは小学校低学年向け、そし て中身のドラマは中学生向け のチグハグさが、もうひとつ下の子 どもについていけない要素になり、 視聴率の低下を招くという結果にな ったのだと、今にして思う。それが 後になって、再放映時、はじめて「海 のトリトン」は評価され、かなりの 数のファンクラブが結成された。お そらく、日本であれだけまとまった ファンクラブができたのは「海のト リトン」が最初であったはずである。 いずれにしても、私のプロデュー ス作品の場合、必ずテレビ放映時 に視聴率がよくなく、あとになって 評価されるという結果が多い。あれ だけ当たった「宇宙戦艦ヤマト」も、 最初に述べたように視聴率がわるか ったのは、私の考えていた視聴対象 年代と放映側の決めつけていた対象 年代とが食いちがっていたことによ るものである。 いずれにしても、「海のトリトン」 は、虫プロを離れてからの作品であ るので、売り込みには苦労した。 オ フィス・アカデミーという会社を設 立してはみたものの、作品を創る前 に、まず食うことを考えなければな らなかった。30代半ばをちょっとす ぎていた私が、プロデューサー業の 看板を掲げても、それだけで食って いけるとは思っていなかった。そこ で、キャラクター商品の二次使用化 を図ることにした。つまり、当時は もらうものと思われていたカレンダ ーを、「キャラクターものだったら売 れるものになるだろう」と考えた。 そこで、はじめてつくったのが、「ム ーミン・カレンダー」。これを売り歩 きながら「海のトリトン」の製作を していたわけである。
「ワンサくんでアニ メづくり開眼!」
キャラクター・カレンダーの製作 と販売をやりながら、つぎに手がけ た作品は白い秋田犬の雑種を主人公 にした「ワンサくん」であった。 こ の作品の製作においても、私にとっ てはまだ試行錯誤の連続であった。 「海のトリトン」もそうであったが、 この「ワンサくん」を通じてつくづ く思ったことは、音楽の重要さであ る。それまでも、アニメ製作におい ては局サイドでもレコード会社サイ ドでも、音楽には絶対カネをかけな いということが常識になっていた。 しかし、それは間違いじゃないかと かねてから思っていた。 私には20代の10年間、音楽の世界 で食ってきた自信があった。それだ けに、アニメーションの映像と音楽 のドッキングに対しては人一倍の興 味を持っていたのである。ちなみに この「ワンサくん」の音楽制作費は 「宇宙戦艦ヤマト」の第一作に対し て約2倍に近い経費をつかったほど である。とにかくディズニーばりに 音楽的な試みは徹底的にやってみた。 それが視聴率でみると、ちっとも報 われない。今になってみれば、いい 勉強になったと笑っていえるが、当 時はそれどころではなかった。 ついでに記すと、対象年代層を私 が間違えていたということ、自分の つくるドラマを、当時のTV局がい ちばん要求していた小学校の低学年 に無理矢理合わせようとしていたこ とが間違っていることに気がついた のが、この「ワンサくん」であった。 しかし、なんといっても最大の苦 労は、完全に自分がプロデュースす るという主張を局側に納得させるこ とである。東京のキー局にはほとん ど相手にしてもらえず、大阪へパイ ロット・フィルムを持って売り込み に必死になった。ちなみに、私が製 作した作品の中で東京をキー局にし たものは一本もないほどである。そ れくらい大阪へはよく通った。 また、作品を創る上で、それ以上 の苦労はカネづくりであった。放映 が決まったTV局から製作費の前受 け金をもらっても、それだけでは到 底足らない。しかも担保になるもの は何もない。しかし、自分の思った 通りの作品を創るためには、その不 足分を自分自身が用意しなければ、 本当のプロデューサーとはいえない。 そうした資金面での苦労は、いい勉 強になった。銀行通いの連続といえ ばきこえはよいが、本人にしてみれ ば死にものぐるいの毎日であった。 話はまた脇にそれるが、よく映画 製作に夢をもつ20代から30代の人が 「もし機会が与えられ、自由につく らせてもらえたら、あんな監督なん 問題じゃない・・・」と言ったりする のを耳にすることがある。私に言わ せれば、そんな風に考えているとし たら、その人はもう終わりである。 「もしカネがあれば・・・」とか「もし 機会が与えられれば・・・」ではなく、 自分自身が本当に映画づくりに賭け ているならば、そういう場は自分で つくることである。これはなにも映 画プロデュースに限ったことではな いと思うのだが……。
「視聴率は悪くても 人材が育った・・・・・・」
「海のトリトン」、「ワンサくん」の 苦い製作体験から、「宇宙戦艦ヤマト」 を製作するさい、最初に脳裏をかす めたことは、小学校高学年から中学 生ぐらいの世代を対象とするドラマ に徹底しようという気持ちだった。 こ の年頃というのは、男であること、 女であることを互いに意識しはじめ る。漠然としたものではあるが、そ うした気持ちが高まって初恋につな がってゆくー… この”初恋時代”のひとつの特徴 は、自分の未来への期待と不安が漠 然とした中にもあるということであ る。世の中の制約など知らない中で、 未来に対する期待感が、受験勉強な どで極端にせばめられている。自分 の未来に対して、何が不安で何が期 待かと特定はできないが、不安感の ほうが強くあらわれる世代は不幸で あると、私は考えるものである。そ うした世代に、未来志向の強いもの を与えなければというのが、「宇宙戦 艦ヤマト」の、第一のモチーフであ った。 私が生まれてはじめて自分のアニ メスタジオを東京・練馬の桜台のパ ン屋の二階に設けたのも、一種の使 命感のようなものであった。このス タジオに一週間に五日はこもりっき りで製作にあたった。不眠不休の努 力は必ず報われると、それだけを念 じて、放映当日の視聴率は絶対20% はいくと思っていた。ところが、今 でもまざまざと記憶しているが、第 一回の視聴率は6%強で、ニールセ ンの調査では5%台という惨憺たる 結果であった。後は冒頭に述べたよ うな絶望感が襲ったのである。 けれども、天は我を見捨てなかっ た。小学校低学年の時間帯に放映さ れていたにもかかわらず、私がター ゲットにしていたミドル・ティーン が観ていてくれ、そういう人々がブ ームに火をつけてくれたのである。 ひじょうに運がよかったといえばそ れまでであるが、私の意図した作品 に共感をもって迎えてくれる世代が いたということ それがもうなに よりも嬉しかった。 それともうひとつ嬉しかったこと は、「ヤマト」の製作に関わってきた 人たちが、以後のアニメブームの中 でつぎつぎに羽ばたいていったこと である。具体的に言えば、松本零士 氏にしても「ヤマト」を通じて、ひとつ の宇宙イメージが明確になったとい ったら言い過ぎになるだろうか。ま た、アニメーターでも、今トップク ラスといわれている宇田川、白土、 安彦、小泉の各氏も、「ヤマト」で育っ た世代である。プロデューサーの役 割として、自分の作品を創るのはも ちろんのこと、その作品を通じて人 材を育ててゆくことも重要な任務で ある。「宇宙戦艦ヤマト」で、それが できたことは、私の二番目のプライ ドである。 三番目のプライドがあるとすれば、 「宇宙戦艦ヤマト」でアニメという 紙に描かれた絵にどうやって質感を もたせるか、それを音楽でいかに強 調できるか、そのテクニックを完全 に把握したことである。ドラマ性の あるアニメと音楽の効果的な組みあ わせとノウハウ――これについては 大変生意気のようだが、他の追随を 許していないと自負している。
「今度こそヤマトに さよならを言おう」
ところで、最近のアニメ界はます ます過熱化して留まるところを知ら ないかにみえる。ことTVアニメに ついては、視聴者が気楽に観ている 点でまだ広がりがあるといってよい だろう。しかし、俗にブームのもと になった劇場用アニメの先行きにつ いては、今のままで行ったらという 但し書きの上で、あと二年でだめに なるだろうと、私は見ている。 理由は簡単である。TVで見られ るものを、わざわざ劇場に観に行く というのは、そこにそれだけの価値 観があるからであって、それが今の アニメブームの特徴であるといって よい。ところが、最近はただ人気が あるからということだけで、TVア ニメをそのまま劇場に持ちこんでい ると思われるものもあるくらいであ る。専門的になるが、我々は絵コン テひとつつくる場合でも、TV用と 劇場用とでは違ってくる。2メート ルぐらい前で見るTVの小画面なら、 それなりにアップの連続カットでも 通用するが、映画というあれだけ大 きな大画面を支えきってゆくために は、かなり細部までも描きこんだ画 像を必要とするのである。それだけ ではない。劇場の広さを考えに入れ ると、サウンド・エフェクトがTV とは比べものにならないほど大きな 比重を占めてくる。そして、いちば ん重要なことは、大画面を支えるよ うなドラマ性がなければならない。 そうした諸々の計算上に立って、 劇場用のアニメが今後どんどん くるというなら話は別である。 なことに、TVの小画面ですみそう な作品を劇場で見せているという が、昨今の状況である。極論になる が、漫画を劇場で見せているような ものがあまりにも多すぎるような気 がする。やはり、劇場というのは映 像作品という言葉が適用するような ものでなければならないだろう。そ ういう考えかたと姿勢をもたない限 り、若者がわざわざ劇場まで行って 感動を味わいにくる気持ちを失ってし まうのではなかろうか。ブームに便 乗してパカパカつくるというなら話 は別だが、劇場に掛けるだけの良質 のアニメ作品を創ろうと思ったら、 三年はみなければならない。TVア ニメが劇場でも通用するんだという ことの証明をしたのが「宇宙戦艦ヤ マト」であったと自負しているだけ に、私は、こうした状況をぼろぼろ にして欲しくないと、 つくづく考え る次第である。その意味で、私は「さ らば宇宙戦艦ヤマト」で結末がつい ていたはずの「ヤマト」に対して、 何度もマスコミに露出してきた決着 を、今度こそ劇場でつけなければな らないと思った。明年公開の完結編 は、テーマだけははっきりしている。 つまり、おのれの意志で消えていく ヤマトがメイン・テーマであり、エ ンドシーンはもう既に決めてある。 はるか永遠の宇宙の彼方に、かつ ての戦場を、14万8千光年のマゼラ ンを過ぎ、アンドロメダを過ぎ、暗 黒星団帝国を過ぎ、そしてはるか二 重銀河の先 ―人類未踏の世界の中 に、人間の意志によって追いやられ るのではなく、彼(ヤマト)は自ら この意志をもって消え去っていく。 同時に、主人公古代とユキの未来 に向かって歩いていく姿をダブらせ る。古代とユキの間に、何か新しい モノの誕生があり、それを見届けた 安心感をもって、人格化されたヤマ トは浄々と去っていく……その結末 を見せるだけに、私は完結編を創る のだといってもよい。それが、TV の小画面ではあまりにもヤマトがあ われである。これまで絶大の支持を 受けてきたヤマトを去りゆかせるた めには、絶対に70ミリの大画面でな ければならないのだ。そのために、 明年の八月公開を期して、昨年の八 月以降二年間をこの一作だけに集中 すべて自分の時間を空けてある。既 にこの一月下旬から台本づくりに入 った。もちろん、今度もストーリー 原案は自分で書いている。これまで 「ヤマト」につきあってきてくれたフ アンと共に、私自身もヤマトに惜別 する日を想いながら……。
