Yōichi Kotabe

1981

November

Interview [w/Haruka Takachiho, “Anime Free Talk”, My Anime]:

日本画をやって、 アニメ界に入る・・・

Takachiho. お名前を初めて見たのは TVの「アルプスの少女ハイジ」で でした。

Kotabe. そうですか。あの時はキ ャラクターデザインというか、作画 監督でしたね。

Takachiho. 私、あの名作シリーズの 大ファンでして、マルコ少年とか…。 それで、その制作に携わった方とお 話ししたいということで、今日、そ の願いが叶って、とてもうれしいで す。 まず、お生まれになったのはい つでしょうか?

Kotabe. 昭和十一年、台湾で生ま れ、終戦後引き揚げてきました。

Takachiho. それで、アニメのほうに はどういうきっかけで..?

Kotabe. 引き揚げてきた頃は、 わゆる何もない時代でしたから、親 戚をたよって日本中をぐるぐる回っ ていたわけですよ。そう、小学校三 年生ぐらいの頃ですか、茨城県の日 立市にいく時に、ちょうど学校の引 率で初めて見たのがディズニーの作 品だったんです。 「白雪姫」とか、 それで具体的に漫画映画というもの を意識した。それと日本の・・・・・・。

Takachiho. 「桃太郎・海の荒鷲」で すか?

Kotabe. それは台湾の頃に見てた んですよ。でも、実際に日立市で同 じ頃に見たのは、政岡憲三さんの短 編で「くもとちゅーりっぷ」。あれな んか、さすがに印象的というか、 近も見たんですが、いいですね。す ばらしい……。

Takachiho. そうですね。それで、そ の後は?

Kotabe. とにかく絵が好きという ことで、東京芸大の日本画に入りま した。だから、なんで今、漫画なん かやっているんだろうという感じな んですよ(笑い)。

Takachiho. そうすると、大学へ進ま れる時には、アニメーションをやろ うという意識で行かれたわけじゃな かったんですね。

Kotabe. いや、こういう仕事もあ るのかと、だんだんそういった気持 ちも募ってきたわけなんですよ。

Takachiho. 当時、アニメーションの 仕事は、まだそんなに一般的ではな かったんでしょ?

Kotabe. 違いますね。こういう仕 事をやるにはどうすればいいのか、 ほんとアメリカに渡ってディズニー に聞かなきゃいけないのかと、真剣 に考えましたね。 ま、漫画の絵を写 したりは好きでやってましたけど。

Takachiho. 手塚治虫)さんが「フ ィルムは生きている」を出版された のは、その頃じゃなかったかと思う んですけど、あれはごらんになりま したか?

Kotabe. あっ、読みました、読み ました。手塚さんのものは好きでし たから、だいぶ読みましたよ。 で、アニメーションというのがは じめてわかったのが「白蛇伝」 れが新聞の広告とか映画の雑誌に出 たんですよね。日本でもアニメをや ってるというんで、びっくりしちゃ ってね、それで落ちつかなくなり・・・。

Takachiho. すぐに行かれたわけです か?

Kotabe. すぐというわけじゃなか ったんですが、就職シーズンで求人 票が貼りだされていまして、その中 にあったんですよ、東映動画が

Takachiho. で、これ幸いと。

Kotabe. ええ。でも、実際の現場 を見せられたら、どうだったか。 業とか給料とか……(笑い)。

最初の仕事は猿飛 佐助の消える場面

Takachiho. やっぱり”動く”という ことが魅力でしたか?

Kotabe. やっぱりそうですね。考 えてみると、小さい頃から動きのあ るものとか、それが基本にあったみ たいですね。

Takachiho. 動くということは病みつ きになるみたいですね。

Kotabe. ま、そこが魅力でもあり、 危険なところでもあるんですよ、ア ニメーションというのは。いろんな ことが表現できるし、動きのおもし ろさに、つい引きずりこまれてしま うということですね。

Takachiho. さっきの話に戻りますが、 東映はすぐに……?

Kotabe. その当時は就職が困難だ ったでしょう。だから、クラスメー トを誘って、みんなで受けようと。 そうしたら、なんと受かったのはそ っちのほうで、実は僕が落っこっち やって、ま、がっかりしました。と ころが、何ヵ月か後に、第二次募集 があり、それで入ったわけなんです よ。東映も、これから前進、前進と いう最高に盛りあがった時期だった んですね。だから、動画部門にも、 三十人以上入ったんじゃないかな。

Takachiho. 東映の大躍進時代に入っ たわけですね。それで最初の仕事は なんだったんですか?

Kotabe. 入社して養成期間が三カ 月ぐらいあり、はじめて本物の動画 をやったわけ。「猿飛佐助」をやり ました。それも最後のほうをちょこ っと。

Takachiho. それは〝中割り”にあた るわけですか?

Kotabe. もちろん、そうです。 映はその頃、原画が終わった後、第 二原画というところに移して、ラフ 原画をちゃんとトレースし、それで その間を埋めるということをしてい ました。で、僕が最初にやったのは 佐助がドロロンと消えたり、煙みた いな姿になったりというところです。

Takachiho. それが映画になってから、 ちゃんと動くのを見たとき、やっぱ り気持ちよかったんでしょう。

Kotabe. ええ、はじめてですから 感激しましたよ。

Takachiho. 待遇なんかは、その当時 どうでしたか?

Kotabe. そんなによくなかったで すね。ふつうの初任給の平均よりは 下がっていましたから。

Takachiho. 東映動画では何本ぐらい 手がけられたんですか?

Kotabe. 「猿飛佐助」をやってから、 「アリババと四十匹の盗賊」まで。

Takachiho. 動物を使ったやつですね。

Kotabe. ええ、猫だとかが出てくる..。

Takachiho. 動画から原画に移られた のはいつごろなんですか?

Kotabe. 「わんわん忠臣蔵」から です。 はじめて原画を任せられました。

Takachiho.  あ、そうですか。僕が確 実に憶えている、見に行った映画と いうことになりますが、動きがすご くよかったことを覚えています。そ の後は?

Kotabe. いわゆる合理化で、作品 的にも盛りあがりがなくなるという か、沈滞気味だったんですね。自分 のまわりでも大塚康生)さんなど、 力のある人は出ていっちゃう…。 作 品の質は落ちている、そんなことで 悩んだりしたんですよ。

Takachiho. TVのほうは、その間、 全然おやりにならなかったのですか。

Kotabe. いや、月岡(貞夫)くん がやっていた「狼少年ケン」なんか を手伝ってね。虫プロの「鉄腕アト ム」なんかもやりました。 その時、 はじめて三コマどりを見ました。

Takachiho. 劇場用だったら、ニコマ 以上だとさびしくなりませんか?

Kotabe. でも、「わんぱく王子の 大蛇退治」なんか、火の神、火山が 爆発するところでは、四コマや六コ マどりをしたんですよ。「安寿と厨子 王」なんかでも、家がくずれるとこ ろはそうですね。その時、これでも 見せられるんだなあと思いましたね。 ただ、ふつうの動きに三コマどりを 使うというのにはびっくりし、とま どいましたけど。

Takachiho. それを月岡さんが仕切っ ていたと……。

Kotabe. そうです。それでTVっ て、こんなに手を抜いてもいいのか と(笑い)。でも、ただ手を抜くんじ やなく、効果とかポーズを考えなき ゃいけない……。

Takachiho. TVは顔のアップが中心 ですからね。全身入れると見えませ んから……。

Kotabe. まっ、そういうことをだ んだん発見していきますね。TVC や、こまかいことをやっても効果が でないとか。そんなことで一度、T V専門にやったのが「風のフジ丸」。 楠部(大吉郎)さんが始めた関係で、 そっちの班に入ったんです。サブチ ーフという肩書きで。

「パンダコパンダ」 は、ピッピの世界

Takachiho. ところで、東映を出られ るきっかけになったのは、どういう 事情からだったんでしょうか?

Kotabe. 具体的には大塚さんがや らなきゃいけなかった「空飛ぶ幽霊 船」を、彼が出ていってしまったの で、僕が作画監督をやらなければな らなくなった。ちょうどその作画の スタッフも、そのまま引きついでや ることになったんですよ。それで、 その後、「アリババと四十匹の盗賊」 で自分の気持ちが落ちこんでいる時 に、大塚さんと楠部さんから、「長 くつ下のピッピ」をやろうという話 があったんです。当時、ロボットも の全盛で、東映では考えられない企 画でしたし、それで出たわけです。

Takachiho. その時、まだ大塚さんは 「ルパン三世」はやってなかったんで すか?

Kotabe. いや、何話か進んでいま したよ。その時、東映を出たのが高 畑(勲)さんとか宮崎 (駿)さんで した。

Takachiho. それでAプロに行かれた わけですね。

Kotabe. そうです。 すでに大塚さ んは準備にかかっており、楠部さん はパイロットフィルムをつくったり していたんですよ。だけど、大塚さ んは「ルパン三世」があってできな いから、高畑さん、宮崎さん、そし て僕がその具体的な準備をはじめま した。宮崎さんが場景から設定まで なにもかもやってましたので、彼が 全権を担って原作者に会いに行った んですけど、なんと版権がとれなく て…….。

Takachiho. 理由はなんだったんです か。キャラクターがだめだとか・・・・・・

Kotabe. いやいや、その時はね、 エコノミックアニマルにはやらさな い(笑い)ってことだったらしいで すよ。絵柄も見てないうちにおこと わりなんだから、みんなガックリき ちゃってね……。その代わりになっ たのが「パンダコパンダ」なんです。

Takachiho. ちょうどパンダブームが 湧き起こった……?

Kotabe. いや、全然関係ない。あ のブームでつくったと思われると、 まちがいですね。

Takachiho. そういえば、すでにパン ダは東映動画の「白蛇伝」でも出て いたんですね。

Kotabe. そうなんです。 宮崎さん 高畑さんが、頭をひねってつくっ ちゃったんですよ。

Takachiho. 僕はあの「パンダコパン ダ」をずっと見てなくて、今年の正 月 (東京) 池袋の文芸座地下でや った時に、安彦良和)さんと見に 行ってきました。あの動きのリズム は実にいいですね。

Kotabe. 当時としては、あれでノ ンビリした世界だったんですよ。そ れがもっともだという時代だったん ですね。

Takachiho. たしか、怪獣ものと併映 だったですね。

Kotabe. 「ゴジラ」のなんとかとい っしょだったでしょ・・・・・・。 あの「パ ンダコパンダ」の世界は、ピッピの 世界でやろうとしていた世界なんで すよ。

Takachiho. その当時は堕落した怪獣 ものを見るのがいやで、行こうかど うか悩んで、結局、見逃しちゃった んです。 この間見て、中編のよさを つくづく感じました。

Kotabe. そうですよ。

Takachiho. ディズニーなんかも、 編をたくさんつくってますよね。

Kotabe. ほどよくまとめられ、チ ームもそう大きくしなくてすみます から……。 最近、ああいうのがない のは残念ですよ。

アニメづくりでは 初めての海外ロケ

Takachiho. 「パンダコパンダ」の後 は、TVのほうに……?

Kotabe. 「ルパン三世」の手伝い に行ったり…..。

Takachiho. 第一期の、ですか?

Kotabe. そうです。その後、「赤胴 鈴之助」で楠部さんのサブにつき、 「荒野の少年イサム」なんてのがあ ったりして….。

Takachiho. ずっと(東京) ムービー 系列ですね。

Kotabe. ところが、やろうとした 作品が出そうもないとか、Aプロと しても抱えた人間をなんに使ってい いかわからない事態になってきた。 そんな時に、ズイヨーから「アルプ スの少女ハイジ」の話があったんで すよ。辞めるのはいやだったんです が、やっぱり何かやりたいという気 持ちが強くって、また、三人まとま って出たんです。だから、ハイジに もピッピの精神が流れているんです。

Takachiho. この作品も、当時のアニ メでは考えられないくらい完全なロ ケハンがなされたということで、僕 なんか度肝を抜かれました。驚いた のは、〝兼高かおる世界の旅”でい イジのふるさとをやったことがあり ましてね。それとまったく同じ水飲 み場が、ちゃんと絵で表現されていた りしたことですよ。

Kotabe. アニメのためのロケハン で、海外へ行ったなんて、あれが初 めてでしょう。

Takachiho. 何人ぐらいで行ったので すか?

Kotabe. 総勢六人でしたか。当時 は見たものを作品に表さなければ、 という意気込みがあり、緊張したも のです。それ以降は、なにかロケハ ンが通例になってね(笑い)。たしか に、それはやっただけのことはあり ました。

Takachiho. 髪型ひとつにしても、そ れまでのハイジのイメージとはずい ぶんちがうものにされていました。

Kotabe. そうです。やっぱり原作 をちゃんと読み、その上で現場を見 たり、いろんなものを参考にしてい ったら、ああなっちゃうんですよ。 絵ハガキからくるイメージではなく やっぱり生活感というものを出そう と、努力しました。

Takachiho. 特にペーターなんかよか った。それからペーターのおばあさ ん。原作者にはわるいけれども、原 作よりずっとよかった。

Kotabe. でも、ある面では危険な ことでもあるわけ。いつかラジオで なにげなく聞いていたら、ある人が せっかく少女時代から描いていたイ メージが、あれで壊されました(笑 い)、といっていました。それ聞いて わるいなあって思いましたよ。そう いう功罪はあります。でも、僕らも 最初は不安だったんです。

Takachiho. ハイジの後がすぐ「母を たずねて三千里」でしたね。あんな 短い原作を、みごとにふくらまして ・・・・。画家の立場としては、想像力の 広がりをどのように発展させていっ たわけですか?

Kotabe. 画家のほうはいいかげん でもいいんですけどね(笑い)。ちが ったキャラクターをつくるとか・・・。

Takachiho. たとえばアメディオとい う猿ですね。あれはどなたが考えた んですか?

Kotabe. 僕なんですけど、あれは 僕自身もおもしろいと思っているん です。でも、あれだって実はピッピ の流れを汲んでいる。ナントカシュ て猿が出てきたでしょう。

Takachiho. うちの会社にはアメディ オのファンがいまして、私もそうだ ったんですが、アメディオ人形を買 い集めたんですよ。カルピスでもプ レゼント用に使ったし、大小とりま ぜて三十匹ぐらいが彼の机の前に、 今も飾ってあるんです(笑い)。

Kotabe. あの人形はつくりにくか ったんじゃないのかな。こちらに一 回持ってこられたらよかったんです よ。ハイジの時はヨーゼフの人形を つくって人形屋さんが持ってきたん です。 そこで僕らがここをこうやっ たら似るとかアドバイスしました。

Takachiho. 私のほうでも全部つくり なおしましたよ。 あんなに目玉は小 さくないですから……。

Kotabe. そうですね。大きくて、 キョロってしている……。

Takachiho. 「ハイジ」と「三千里」の二 作で、あとあのシリーズにはタッチ なさらなくなりましたが……?

Kotabe. 「三千里」がシンドかった んです。路線的には、もうさかさまに しても新しいものは出せないって・・・、 それで今度はフリーになってみんな の手伝いでもしようと考えたわけで す。そしたら、東映のほうから、「龍 の子太郎」の話がきたんですよ。

浦山監督との出会 いは貴重な経験・・・

Takachiho. 実写の監督と組まれたの は、この作品が初めてですね。いか がでしたか、その違いは?

Kotabe. 最初は不安だったんです。 それも監督に対する不安ではなく、 「龍の子太郎」に対する不安があっ たんですよね。実は東映にいる頃、 この企画を大塚さんと高畑さんが出 していたんですよ。それが企画段階 でポシャって、代わりに「太陽の王子 ホルスの冒険」になったといういき さつがあるものですから、高畑さん をさしおいてやるということがいや だったんですね。

Takachiho. 結果はどうだったんでし ょうか?

Kotabe. いや、よかったですよ。 やっぱり自分にとっていい経験にな りました。監督の浦山 (桐郎)さん ていえば、僕は「キューポラのある 街」しか知らなかったんですが、演 出らしい演出というのかなあ、作品 を考えぬいてくれる人は、僕、尊敬 しちゃうわけです。シナリオを見て、 アッと思ったですよ。 高畑さんもす ごいけど、 浦山さんもとにかくすご かった……。

Takachiho. 監督っていえば、小田部さんは演出をされたことは?

Kotabe. いや、とんでもない。 監 督っていうと、 いかめしい感じがし て(笑い)。演出と呼び慣れてきまし だけど、それでもおそろしくていや です。

Takachiho. すると、絵一筋、作画一 筋という……。

Kotabe. 自分として精一杯かかれ るのは、絵だけですし、それを離れ たら何もできないと思いますから、 とっても演出ってのはね。そんな器 じゃないですよ。

Takachiho. いやいや、ずっと作画を やられ、わりとリズムというか、そ ういうことから演出が可能ではない かと思うんですが。

Kotabe. そんなこともできないわ けじゃないんでしょうけど・・・

Takachiho. ところで、最近の作品と いえば「じゃりン子チエ」が「龍の 子太郎」のあとにくるわけですか?

Kotabe. その間にもう一本あった んです。それで海外ロケまでしたん ですよ。ところが、それがポシャっ ちゃいましてブラブラしていました から、大塚さんのところに遊びに行 ったんですよ。そしたら、「こんな 作品があるんだよ」 「アッ、それ、 おもしろいですよ」なんていってい るうちに、「やってよ」ってなことに なった。それが「じゃりン子チエ」 なんです。

Takachiho. 劇場版のものですね。ジ エットコースターのシーンなんかも おやりになったんですか?

Kotabe. いや、僕が描いたのでは ありません。あれはテレコムの人の 原画なんですよ。

Takachiho. では、キャラクターだけ なんですか?

Kotabe. ええ、そうです。あとは 設定図にして、その作画チェック。 それをやってたんですよ。

Takachiho. 現在はどんな作品にかか わっておられるんですか?

Kotabe. 今のところ、NHKで放 映中の「名犬ジョリー」を手伝って いるんですよ。

動きの点検ができない体制が不満だ

Takachiho. ずっと作画のほうでやっ てこられてどうですか、日本のアニ メ界は?

Kotabe. 長さでいえばね。でも、 自分としてはいっこうにうまくなら なくて。アニメーションって、すぐ 描けるものであって、それでなかな か…….。

Takachiho. こんなに脚光を浴びると は思われなかったんじゃないですか。

Kotabe. いや、まったく想像しな かったですね。だって、最初にいっ たように、僕は漫画ってのはわから ないし、むしろ馬鹿にされたほうで すから。おまけに、むかしは動画 ていったんですよ。しかもドウがっ ていえば、童画と思われた。それで いちいち説明したりして…。 それ が最近ではアニメっていえば通じる んですから(笑い)。

Takachiho. 仕事はだいぶセーブされ ているようですね。

Kotabe. 今のところ、うまくいっ ているというか、いやな作品にはあ たっていない。幸せみたいな感じで すが、僕みたいにフリーっていうの は、華やかにみえるでしょうけど、 そうじゃないですからね。

Takachiho. 全般的に不満は多いです からね。私も今は小説書いてやって いますけど、アニメの仕事をやって いた当時は、かなり不満をもってい ましたよ。本人はそのつもりでなく ても、いいかげんにやってしまうと いう人がすごく多かった……。

Kotabe. そう、そこなんだ。本人 はそのつもりじゃなくても、やっぱ りそういう場がないと。 アニメーシ ョンっていうのは、一人でいくら一 所懸命やろうとしてもだめなんです。 大事なのはスタッフ。でも、いい脚 本がなければ、それも生きませんし、 総合芸術っていいますが、その通り なんですね。

Takachiho. 恵まれるかどうかっての は、運・不運もあるでしょうし……。

Kotabe. ある芯ができれば、スタ ッフがただのスタッフじゃなくなる んですよ。ある作品づくりのために 人が集まってきて、一人一人が熱中 しだし、よしっていう気になったと きがいいんです。自分があれをやっ た、これをやったじゃなく….。 つ まり、苦しくても、できたものにつ いては、それぞれ動画にしろ、仕上 げにしろ、それぞれの努力が作品の 重要性につながっていく…。

Takachiho. それが骨になって、 肉に なって、かたちができていく・・・・。

Kotabe. そういうつくりかたね。

Takachiho. 全体的に見れば、もうと にかく一つのレベルに達してしまっ ているという……。

Kotabe. そうなんですよ。

Takachiho. それは、いわゆる共同で 作業するいちばんいいかたちですね。 その意味では、理想的なかたちで仕 事をやっておられるという感じで・・・。

Kotabe. 僕は、今のアニメーショ ンは、せっかくいいものができそう なのに、まだ足りない問題は、もう 一回見直そうとする余裕がないこと なんですよ。スケジュールに追われ すぎて、フィルムテストもできない。 手探りで、自分の経験だけでやって いかざるをえないわけですよね。や はり、なにかをつくる以上、アニメ ーターの側からいえば、動きの点検 がもっとできるシステムになれば、 もっといいものができると思うんで すよ。だから、そういう体制ができ るといいですね。

Takachiho. なにか、最近はビデオに 撮って、それをすぐに映して見れる というシステムがあるそうなんです けど……。

Kotabe. だけど、それも聞いてみ たら、ほんとに活用しきってないと いうんですよ。

Takachiho. 今度、私の作品で「クラ ッシャージョウ」っていう作品がア ニメになるんです。安彦良和)さ んが監督で、それにできる限りそう いうシステムを導入して、チェック してやっていきたいと思っているん ですが。

Kotabe. それはすごいですね。で、 ちゃんと機械はもう…?

Takachiho. ええ、手配できるように なっているんですよ。安彦さんもい っているんですが、目標を「カリオ ストロの城」において、ああいうア ニメーティングでつくっていきたい と考えているんですよ。

Kotabe. あれだって、まったくの 手探りだったですもんね。もっと、 そういうのを駆使したら……。

Takachiho. そうですね。あの塔の上 から滑り落ちていく展開のリズムは、 ものすごいテンポでしたから……あ あいったものを、とにかく表現でき たらって話しあっているんですよ。

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