1981
November
Feature Article [“Legends of Japanese Voice Actors”, My Anime]:
声優仲間にはインテリが多い。誰 はどこの大学、彼はこれこれの大学 と、その出身校を並べあげると、「ヘ えー」と目をむいて驚くアニメフ アンが多い。 山田康雄も、その「へえー」と 驚かれる組の一人かもしれない。 山田康雄、現在、劇団”テアトル・ エコー”の幹部俳優。 昭和七年九月 十日、東京の閑静な住宅街、大田区 雪ヶ谷で生まれた。父は当時、日本 銀行に勤めていた堅いサラリーマン。 後に局長にまでなられた方であった が、彼が七歳の時惜しくも病をえて 亡くなられた。 幼少のころはひ弱で、気の小さな お坊っちゃん。大事大事に育てられた からかもしれない。それが小学校三 年生の時、扁桃腺の手術を受けてか ら何もかもがコロッと変わってしま ったとたんに体がすっかり丈夫に なり、それまで怖かった水がなんで もなくなってスイスイ泳げるように なれたし、足も速くなってチョイと ダッシュをかけると猛スピードで駆 けられ、たちまちリレーの選手にも った。また、それまでおとなしく お姉さんと一緒に習っていたピアノ の稽古が、急につまらなくなって、 稽古の日には逃げ回るようにもなっ た。いいとこのボンボンから、急に エネルギーを持てあますイタズラ小 僧への変身が始まったのだ。 都立一中に入学したころは、完全 に腕白少年になっていた。一中は後 に学制改革により日比谷高校となる が、当時、東大進学率全国第一位の 名門校であった。康雄少年は腕白で はあったが、頭のいい子であったに 違いない。 友人の多くは東大に進学した。だ が、彼は国立大をきらって早大文学 部英文科に進んだ。東大進学、そし て日銀へ、将来は日銀総裁。それが 亡き父の願いであったようだが、彼 は自由の世界を求めて、自由の殿堂、 早稲田の大隈講堂で入学式を迎えた。 堅苦しいことは大きらい、徹底し たリベラルな人生観が、彼にワセダ を選ばせたようだ。ここ数年、国立 大よりも私大を選ぶ若者が増えてい ると聞くが、彼はその風潮を先取り したともいえる。 高校時代、野球部でセカンドとし 大活躍していた彼は、大学に入学 するとすぐに野球部入りを志した。 早大入学の目的の一つには、WAS EDAのユニホームを着て、六大学 野球の花形選手として神宮球場の土 を踏む、という夢があったのだ。 だが、いそいそと野球部新人歓迎 会の合宿に出かけて行ってみて驚い た。見まわしてみると、いずれも地 方高校のグラウンドでタップリ鍛え あげてきたような、真っ黒に日焼け した大男ばかり。頑健、屈強そのも のの若者ばかりであった。都会育ち のヒョロヒョロした男は、自分以外 には見あたらなかった。 ガーン! 早大入学時の夢はか くして入学そうそうにしてこわされ た。合宿を一日で「失礼させていた だきまし す」と、か んべんし てもらっ て、その 足で早大 生たちで 結成して いた 団・自由舞台”に飛び込んだ。変わ り身の早きことルパンのごとしだ。 演劇は前々から好きではあったが、 あれは女子供のやることと、心中、小 バカにしていたところがあった。 が、野球がダメだとすると、いささ か事情は変わってくる。演劇がにわ かに魅力ある存在となって浮かび上 がってきたのだ。 ならば、ちょいと演劇とやらをか じらせていただこう。教えていただ こうと、ごくごく、かるーい気持ち で、スーッと〝自由舞台”に入り込 んだのだ。 それがやってみたらバカバカしく 面白い。八方破れの無手勝流で演じ てみせると、先輩たちがゲラゲラ笑 って喜んでくれる。どうやらボクっ 才能があるみたい。さほど努力し なくっても、なんとか役者になれる んじゃないかしらん。そんな気 分にもなって きた。彼がそ んなふうに思 ったのも、生 来のオポチュ ニスト(楽観 主義者)だか らとも言い切 れない。 彼は目にしたもの、耳にしたもの を素早く捕える鋭い観察力と、豊か な表現力を持っていた。回転の速い 頭脳と、柔軟な肉体、そして並はず れたリズム感が、彼独特の演技を創 造させてくれた。事実、彼にはその 才能があったのだ。 演劇に熱中するにも金がいる。彼 はよくアルバイトをやった。金にな るのでキャバレーのバンドで働いた こともある。だが、バンドマスター から「お前が弾くと音をはずすから、 ベースを抱えて立っているだけでい い」と、バカにされただけで教えても もらえなかった。一人前に弾けるよ うになりたかったら、先輩の芸を盗 むしかない。プロになりたかったら 自分の力ではい上がるしかないのだ ということを、音楽の世界で学んだ。 芝居の稽古とアルバイトに熱中し ていたために、気がついてみたら 位をかなり取りそこなっていた。こ いつは留年間違いなしと観念した時、 ちょうど劇団民芸”が新人を募集 していることを知った。 よし、一丁受けてやれ!と、 るーい気持ちで応募してみたら、こ れがなんとスンナリ合格。早々に大 学を中退〝民芸〟演技部研究生の生 活が始まった。念願のプロの俳優と しての修業が始まったのだ。 だが、通ってみると、何となくし っくりしない。早い話が、どうも新 劇というやつが肌に合わないのだ。 新しがっているクセにやることが古 めかしい。セクト的で妙にオツにす ましているところも気に入らない。 新劇なんて名ばかりだ・・・・・・。こんな 気分でいた時に、日本舞踊の稽古を するから浴衣を持ってらっしゃーい、 ときた。とたんに夢がスーッと覚め て、もう行く気がゼーンゼンしなく なってしまった。予想通り一年後に は整理されてチョンとなった。 することがなくて困っていたら、 大学時代の先輩から新しいグループ を結成して演劇活動を始めるから参 加しないかと、誘いを受けた。早速 加入。若いグループとしてラジオや テレビ局から歓迎され、仕事もでき るようになってきた。昭和三十二年 ごろのことである。 まだ駆け出しの新人だから、どこ へ行っても共演者はこの道の先輩ば かり。その先輩の一人にテアトル・ エコー”の熊倉一雄がいた。この熊 倉先輩が、仕事の帰りによく彼に声 をかけてくれて、銀座界わいの高級 な店で飲ませてくれた。初めて見る 上等のウイスキーを熊倉先輩は軽く あける。「オレもいつかはこんな酒を 飲めるようになれるのだろうか……」 と感激しつつもグラスを傾け、遠慮 なくドンドン飲んだものだ。 そんなある日、テレビの仕事が終 わった後、例によって、「ヤスベエ、 今晩オヒマ!!」と、熊倉先輩にささ やかれた。ヤスベエ、いそいそと、 「ゼーンゼンヒマ、ナーンニモナイ ノ」と答えた のが運のツキ。 いや、開運と なったのだ。 早速、熊倉 先輩、タクシ を拾うと ヤスベエを押 し込めてスタ ート。「アレレ、 今日は方角が 違うかな?」 と気がついた 時には、もう 目的地に着い ていた。そこ は”エコー” の稽古場、ち ょうど舞台稽 古の真っ最中 であった。 そして、彼 がポーッとし ている間に、 彼はその舞台 に出演する人 となってしま った。 こうして、 彼の”エコー” 入団が決まった。彼に言わせれば、 先輩、熊倉一雄は〝人さらいのクマ ちゃん”なのだそうである。しかし、 もし彼がこのクマちゃん”に会っ ていなかったら、山田康雄の〝ルパ ン三世〟は誕生しなかったかもしれ ない。 彼が〝人さらいのクマちゃん”に さらわれて〝エコー”入りしたから こそ、後にルパン三世にキャスティ ングされる幸運をつかむことになる のである。 “エコー”に入ってから、アテレコ の仕事をやるようになった。「アニー よ銃をとれ」「ローハイド」など。こ の「ローハイド」では、若き日のク リント・イーストウッド演ずるカウ ボーイ役にキャスティングされ、名 前が新聞にものるようになった。 そ して、「コンバット」にもレギュラー 出演した。 次から次へと打たれる劇団公演に も彼は連続出演。エコー”の新人と して注目を浴び始める。彼の演技は スピーディーで一見ハチャメチャだ が、他の誰も真似することのできな い世界を創造していく。 その彼の創造性を十分に生かし、 活躍させてくれたのが、井上ひさし 作品であり、熊倉一雄の演出であっ た。 「日本人のヘソ」の公演中のことだ。 楽屋に日本テレビのディレクターが 訪ねてきた。新たに始まる「ルパン 三世」のルパン役にぜひ、という交 渉であった。ルパン役を求め探し歩 いていたら、ルパンそっくりの役者 が舞台いっぱいに跳びはねている。 そこで、早速出演交渉となったとい うわけだ。こうして、彼の「ルパン 三世」 出演が決まった。 昭和四十六年十月放映開始。しか し、わずか五カ月のはかない命で「ル パン三世」は消えた。作品が時代を 先取りしすぎたのである。それが、 五十二年十月、再び登場すると今度 はバカ受け大当たり。たちまち山田 康雄の名は、アニメファンなら誰一 人として知らぬ者のないほどに有名 になった。まさにドンピシャ、その ものズバリという好配役であったか らだ。彼自身、今後あれほど自分に フィットした役にめぐり合えるかど うか……と懐かしむ。 俳優は誰しも一生に一度でいい、 自分を存分にぶつけられる役にめぐ り合いたいと願っている。彼はその チャンスを捕え、みごとに大輪の花 を咲かせてみせてくれた。山田康雄 は本当にラッキーな男である。 (文中敬称略)
