1981
May
Spotlight Article [“Director Note”, My Anime]:
時代や歴史を超える作品評価
口にギャグ物”といっても、ギャグ物と は、こうこうこういう物ですと、明確には答 えられないような気がします。一応笑いが主 たる要素になったものとしても、笑いにだっ て、ギャグ、ユーモア、ジョーク、エスプリ、 ナンセンス等、言葉や国の違いだけではない、 微妙なニュアンスがありますが、私は、評論 家のように、ジャンル分けして、それぞれを 定義づけするなんてことは、あまり好きでは ありませんし、自分でもよくわからないので す。そこで、あまり理論的に厳密には考えず、 世間一般に通用する程度の、ジャンル分け、 意義づけで、この稿を進めたいと思います。 なにしろ、ギャグを論ずるのに、あまり肩ひ じはるのも変な話ですので······かといって読者 すっかり、ギャグの世界に引きずり込んで、 おもしろおかしくしてあげられるだけの筆力 も才能も、私にはありませんので、まあ、演 出家のメモ程度と思って、軽い気持ちで読ん でいただければ、幸いです。 さて、世の中には数々の分野の作品があり ますが、ここでは自分にとって、身近な分野 である、文芸、絵画、彫刻、写真、書、映画 などをさすものと仮定いたします。これらの 作品とは、いろいろな要素というか、その目 的によって、それを見る人に感動を与えま す。それは快感かも知れませんし、不快感か も知れません。また単に美しいとか、それを 見る人に希望を与えるとか、心の慰めになる とか、また逆に怒りが湧いてくることがある かも知れません。喜び、怒り、悲しみ、興奮 等、感動にもさまざまありますが、しかし、 それを見る人にどんな種類の感動も与えない となると、その作品は駄作ということになり ますが、これもハッキリと駄作といいきるこ とは、難しいのです。例えば、ある時代には 駄作と評価され、人々に見向きもされなかっ た作品が、ある時代になって、突然見直され、 高い評価を得、爆発的ブームを呼んだりする 例も多々あります。そこで駄作駄作でない こともありうる、と定義づけできるかという と、またそうでもなくて、駄作駄作である ことの方が多いわけです。ではその差は何か” というと、その差は作品の質といえるのでは ないでしょうか。その時その時の評価とは関 係なく、その作品の持つ質だけは、時代を超 えて存在しつづけるのだと思います。 ですが、ここでは質とか、時代の評価まで考 えに入れて論じていると、ちっとも前へ進み ませんので、その点にはあまりふれないで一 応、評価は現代、質は最低限レベルを保って いるものとします。
漫画と映画の合体がアニメか
さて、前おきが長くなってしまいましたが、 そろそろ私の本職であるアニメーションに入 りたいと思います。私はもともと漫画家志望 で、漫画家のアシスタントなどをやりながら、 コツコツ自分の漫画などを描いて、投稿など していたのですが、ひょんな運命のいたずら から、アニメーションの世界へ足を踏み入れ、 途中絵本とか、イラストに転じた一時期を含 め、ドップリとアニメーションに漬かって今 日まで来てしまいましたが、今にして思えば それだけ、アニメーションが自分に合ってい たのか、魅力があったのでしょう。 アニメーションとは私流に簡単にいえば、 漫画と映画の合体といえます。もう少しつき つめれば、漫画を目的とし、映画を手段として いるといえなくもないでしょう。したがって、 漫画といえば“笑い”と連想するように、漫画 もアニメーションも“笑い”の要素なしには考 えられませんでした。 現在では漫画もアニメーションも、さまざ まにジャンル分けされ隆盛をきわめています が、そもそもの出発点は、それを見る人を、ど う笑わせ、どう楽しませるかに焦点をあてて いるというか、それが目的であったわけです。 この作品はギャグ物だからとかいった考えは ありませんでした。 私のアニメーションの出発点になった、虫 プロの社長であった、手塚治虫先生は、漫画に も、アニメーションにも必ず“笑い”の要素を 強く求めました。私のアニメーターとしての スタートは、日本初のテレビシリーズの「鉄腕 アトム」ですが、「新宝島」「銀河少年隊」を経て 「W3」で初めて演出を手がけ、絵コンテなる ものを描いたのですが、その時もストーリー どう展開していくかより、どこにどのよう な形で“笑い”をもりこんでいくかに苦労した ものです。 そしてよく注意を受けたものに”楽屋おち” があります。 これは自分たち仲間だけに通用 するギャグなのですが、描く方としては、おも しろくて描き易いので、ついついそこへはま り込んでしまうのです。それと、もう一つお ちいりやすいのが、その時、その時の流行で す。これはタイムリーにいくと大変おもしろ いし、受けるので、いちがいに悪いと決めつけ られないのですが、再放送などで時代が変わ った場合、古くさく感じてしまうことと、虫 プロの場合、いつも海外売りを考えていたた め、外国人にもわかるもっと普遍的な笑いを 求められたのです。 私が手塚先生に教えていただいた、笑いを 作るテクニックの一つに、必ず三回以上くり かえせというのがあります。それはただ単に、 石につまずいて転ぶということでも、ただの 一回こっきりでは、単なる事故というか、ヘ タをすれば気の毒にということになってしま いかねません。現実には一回でも転べば、見て いた人が笑ったりすることがありますが、作 品となると転ぶには転ぶだけの意味がなくて はなりませんので、笑わせることができなけ れば、ギャグとしてはまったく無意味であり、 となれば転ばせたことそのものが、その作品 にとって意味がなくなるわけです。そして二 回目にまた転ぶと、はじめてまたやったとお かしく思い、三回目以上になると、これがそ のキャラクターの個性ともなって、見る人を 初めて笑わせることができるというものです。 これは転ぶという単純なことを、一つの作 品の中において、三回以上行わせた場合です が、ギャグ物のように即効性の笑いを期待す る場合、連続してやらせることもできます。 例えば空カンにつまずいて転びそうになる 運よく垂れ下がったロープ、そのロープに しがみついてホッとするまもなく、そのロー プがしばってあった木が折れて、あえなく下 の水たまりへ頭からザッブーン、そしてさら にその頭上へ折れた木が落下、というように、 たたみこんでいくわけですが、だからといっ ただ三回以上重ねれば笑いが生まれるか というと、そうは見る人も甘くはなく、あく までもこれは考える上での基本であって、や はり手をかえ品をかえアイディアを練らなく てはなりません。 現在は漫才ブームとかいわれ、お笑いタレ ントがもてはやされていますが、日本では笑 “ということがなぜか、一段低くランクされる きらいがあります。“笑い”は人生にとっても、 人間関係においても潤滑油ともいえるし、ま 精神衛生上からも大変結構なものなのに、 その貴重な“笑い”を与えてくれる人をバカに する心理は、どこからくるのでしょう。よく 喜劇役者そのものまでをバカと思い込んでし まうからでしょうか? もう一つ考えられるのは日本人の国民性で す。私たちはともすると笑っているとフマジ メ、泣いていたり、歯をくいしばっていたり、 ハチマキをして勉強したりしていると、マジ メだと思うようなところがありますから……。 しかし、そのバカにされる“笑い”を創る立 場になりますと、泣かすより大変難しいこと で、人を泣かすのなら、ドラマの設定で、そ のストーリー構成を、どんどん不幸や悲しい ものにしていけばすみますし、それこそ、不 幸な人の身の上ばなしでだって泣かすことは できます。また、最愛の人を殺したり、すれ ちがわせたり、友情をこわしたり、復活させ たり、タネはいくらでもありますし、こうい 話の場合多少語り口は下手であっても、そ 話の内容で十分人を泣かすことができます。 また泣く”ということのなかに、感情面では、 喜びもあれば、悲しみもあり、くやし涙もあ ります。ですから作者としては、そのどれか をくすぐってやれば、見る人の身分、年齢、 人種等に関係なく泣かすことができますが、 一方“笑い”となるとそうはいきません。“笑い” なんて一見単純そうですが、その笑いの中に は、身分、地位、貧富、年齢、心理、職種、 人種、環境、土地柄といった複雑な要素が入 り混っていて、同じ話をしても、笑ってくれ る人もいれば、逆に怒り出す人がいるかも知 れません。相手が小さな子供なら、ひょうき んな顔をしたり、バカバカしい動作をくりか えしやるだけでも、大喜びしてくれますが、 それと同じことを大の大人にやったら、せい ぜいよくて苦笑か、冷笑、普通は無視、悪く すればバカにするなといって、殴られかねま せん。また下品な話題で喜ぶ人もいれば、顔 をしかめられるか、下手をすればその場から 追い出されることもありえます。それだけに 一つの作品をとおして、より多くの人に笑っ てもらおうとすることは、難しいことなので す。ですから上質な笑いを、絶えず提供しつ づけることは、はたで考えるほど楽なもので はありません。そして笑いほどテクニックと タイミングを要するものはないでしょう。ズ バッとタイムリーに笑わせるのもテクニック なら、タイミングを狂わせて笑わせるのもテ クニックであり、またそれも、タイミングに ほかならないというように、すべて計算の上 に成り立っているのです。これが舞台などで したら、観客の反応をみながらネタを使いわ けたり、また思わぬところで受けたりするこ ともありうるでしょうが、映画のようにあら かじめ創った作品を観客にゆだねる場合、偶 然は期待できませんので、スミからスミまで 計算して構成しなくてはなりません。それに 送り手側と受け手側の思いが合致しなければ、 どうにもなりません。 こんな時テレビシリーズのつらいところは、 我々がそれを考えて創っている時点と、それ を見た人の反応が、我々に伝わってくるまで に約半年くらいの開きがあるため、不評だっ たからとあわてて方針を変更しようとしても、 その半年の間に約二十六本近くの製作に着手、 もしくは完成してしまっているため、おいそ れと対応できないのです。それだけにああで もない、こうでもないと、手探りで知恵を絞 るわけですが、人は我々が考えあぐねて苦し んでいても、努力しているとは思ってくれず “なーんだバカバカしい、そんなことをシンケ ンに考えるなんてアホなんじゃない”と冷笑さ れるのがオチなのです。
楽しい笑いを作るテクニック
さて“笑い”と一口にいっても、その笑いの 中にはさまざまな感情があって、冷笑、苦笑、 微笑 哄笑、失笑、爆笑、泣き笑い、思い出 笑い、忍び笑い、ふくみ笑い、等々の形で 現れてきます。 我々が作品に盛り込もうとしている笑いは あくまでも楽しい笑いです。そしてその笑い を引き出す方法として、さまざまなテクニッ ク、アイディアを使うのですが、笑いを創るテ クニックといった方法論は一応あるにはある のですが、その通りやったからといって、け して成功するわけではなく、やはり作者の 資質に大きく左右されるようです。 一応方法論としては、まず考えついたアイ ディアを思いつきで使うのではなく、よく練 りに練ることが大切です。見る人の思うよう になったというのも、笑いを誘う一つの方法 ですが、そこで止めることなく、その先にも う一つ思いもしなかったことを用意しておく 必要があります。また、ああでもない、こう でもないとひねりにひねっているうちに、出 発点にもどってしまうことがよくあります。 そんな時には、そのアイディアをストレート に使用すると、見る人はまさかわかりきった ようになるとは思わず、きっと何かとんでも ない、どんでん返しがあるはずだと勝手に期 待して待っていると、結局なんでもなかった ということになって、見る人の期待を外す。こ れもある意味のどんでん返しということがで きます。しかしこの手は前もって、ひねりに ひねった、アイディアの積み重ねがあって、 はじめて生きるのであって、最初から安易に この手ばかりでは、見る人にソッポを向かれ てしまいます。その他、登場人物等がバカバ カしいことをやるので笑う、しぐさの誇張で 笑う、身につまされて笑う、等々あります。
マンネリを作りだす努力
ではこのへんで現在私が手がけている”タ イムボカンシリーズ”についてふれてみたい と思います。”タイムボカンシリーズ”は、竜 の子プロダクションのオリジナル作品で、メ カ物のギャグ路線、もしくは逆にメカ路線の ギャグ物ともいえる作品です。このシリーズ の第一作目の「タイムボカン」がテレビに登 場した時、私はまだ他の作品を手がけていた のですが、まったく新しいジャンル(メカ物と いえば絶対的にシリアスムードの、勧善懲悪 物と相場が決まっていた)であることと、アイ ディアの奇抜さに驚いたものです。私がこの 「タイムボカン」を手がけるまでに、手がけ ギャグ物といえば、「ドラえもん」(前作)と 「さるとエッちゃん」の二作だけですが、こ の「タイムボカン」は従来のギャグ物とも、 まったく異質でした。 このシリーズは偉大なるマンネリと評され たことがありますが、その単純ともいえるワ ンパターンの中に、マンネリでワンパターン であり続けるための努力がなされているので す。だからこそ六年間も続けて好評を博して いるのだと、携わっている者として自負して います。このシリーズの人気の秘密は、総監 督である笹川ひろしさんの卓抜したアイディ ア、そして、キャラクターの魅力と声優さん の力が一体となって支えているのだと思いま す。私は現在笹川さんと親しく、共にアイディ アを練ったりしているわけですが、いつもそ のアイディアの発想の奇抜さに感心していま す。よく人に毎回毎回よくもあんなバカバカ しいことを考えつくもんだ、と妙な感心し かたをされますが、まさにこのシリーズの面 目は、そのバカバカしいことを臆面もなく展 開していくところに、あるのではないでしょ うか。タイトルにしても、一作目の「タイム ボカン」はまあともかく、「ヤッターマン」「ゼン ダマン」「オタスケマン」「ヤットデタマン」と まあ恥ずかし気もなく命名できたものだと、 関係者の一人なのに、あきれています。そし て更にタイトルでは善玉が主人公なのに、内 容は悪玉の三悪が名前こそ変われ、ずっと主 人公然として君臨しているのです。もちろん 声優さんもずっと同じ方々です。 演出的にも絵コンテを描く場合、このシリ ーズは慣れて描くということができません。 いつもいつも発想しつづけ、アイディアを練 りつづけ、ひねりつづけなくてはなりません。 このシリーズは何をやっても許される性格 の作品なのですが、この何をやってもいいと いうことは何かやらなくてはいけないという ことで、そこが大変なところであり、またお もしろい部分でもあるのですが……。 またこのシリーズの特徴としてあげられる のは、キャラクターが独り歩きをする部分で す。普通ストーリーにそってキャラクターが 存在する作品の多い中で、キャラクターの持 パーソナリティーで展開していく部分が、 かなりの比重を占めています。 特に悪の三人 組にそれがいえます。悪のはずなのに妙に親 しみが湧いて、描く方としても、アニメのキャ ラクターというより、前からこの三人組を知 っていたような存在感があります。この存在 感の秘密は、もちろんキャラクターの性格づ けもありますが、この三人の声を演ずる声優 さんが、キャラクターに声を入れるというよ それぞれ、このキャラクターを自分だと 思い込んでいるようなところがあり、声優さ んからああして欲しい、こうして欲しい、ま たこの方がおもしろいのではないかと、いろ いろな注文がつけられますし、我々の方もキ ャラクターと声優さんがほとんど同一人物の ような錯覚にとらわれています。 悪玉なのに ファンレターが多いのも、おもしろい現象で す。 また、善と悪が絵づらでは命がけの闘いを するのですが、なんとも奇妙な連帯感で結ば れて、悪玉の方は自分たちだけで事がうまく 運びすぎるとかえって不安になって、善玉の 登場を心待ちにして、結局善玉の登場でメチ ヤメチャにやられてはじめてホッとするよう なところがあります。そして善玉の大時代風 の登場の仕方とセリフ、普通ならテレてやれ ないところですが、わかりきっているのに毎 回毎回、臆面もなくやってしまうズウズし またこのシリーズには目玉が二つあって、 その一つが子供番組なのに登場する女性ヌー ド、もちろん下品にならないようお色気どま りに心がけています。そしてもう一つの目玉 視聴者参加です。本編の中でファンレター をとりあげたり、スチール写真を登場させた り、声の参加をしてもらったりもしています。 これはとても反響があるのですが、なんせ、 限られた本数のため、全部紹介できないのが 残念なくらいです。 なにはともあれ、失敗して笑われるのではな く、良い作品を創って、成功して笑ってもら いたいと、念願しています。
