Nachi Nozawa

1979

March

Feature [“Seiyuu 24 Hours”, Animage]:

深夜DJの草分け的存在

野沢那智——職業・声優と書くにはいささか抵抗がある。『新・エースをねらえ!』の宗方仁役、そして、右に出るものなしのアラン・ドロンの吹きかえ、さらにさかのぼれば、その声優としての評価を一挙に高めることになった15年前の『0011ナポレオン・ソロ』におけるイリヤ(D・マッカラム)の声。人気からいっても、実績からいって声優ブームが起こる100年も前から、野沢那智は押しも押されもせぬ第一線の人気声優だったのだが、それでも、声優などという偏頗ないい方では、このカオスのような不可思議な人間をとてもいいつくすことはできない。第一級の人気パーソナリティーという顔がある。昭和4年8月、スタートのTBSラジオ『パック・イン・ミュージック』に、白石冬美といわゆる「ナッちゃん・チャコちゃん」コンビで登場、第一次深夜放送ブームに火をつけて以来まる1年余、当時の同僚DJ連が他局をふくめつぎつぎと姿を消していく中で、ただ一組、現役の座を守りつづけ、今夜もまたその最長不倒記録を更新中。劇団主宰者・演出家としての顔-―いうまでもなく、ラシーヌ、コクトー、ジャン・アヌイ、ジロドゥーら一連のフランス戯曲の連続上演で著名な劇団薔薇座の創立者であり、育ての親であり代表。さらに芝居の大道具作らせりゃ専門家はだしで絵もかく。小唄は発表会開けるぐらいの腕まえ。文章もいける。そして、テレビ、舞台の役者としても…。一体、どれが、本当の野沢さんですか。

浜町河岸育ちの下町っ子

野沢さんが腕一本で建てたといわれる東京・代々木初台にあるしょう酒な薔薇座のけいこ場の一室で開口一番、まず聞いてみたのがこれ。「うーん、改めて聞かれても・・・どれが軸ってことないのネ・・・」昭和18年生まれだから、深夜放送のアイドルも、もう4歳。チラホラみえる白髪が、わずかに年齢を感じさせるが、血の気のない蒼白な顔、中年太りなど無縁なスリムな体つきからは、独得のふんい気が漂ってくる。野沢さんが、どれが軸といえないほどの多彩な顔を持つ人間になった由来は、やはり、その生れ育ちに大きく影響されて、といってだろう。父は大衆作家の陸直次郎。母は小唄のお師匠さん。明治座近く、久松町や人形町、浜町あたり遊び場として育った。下町といっても、昨今、テレビの影響でブームを謳歌している、安物の下町を想像してもらっちゃ困る。浮いた浮いたの浜町河岸に・・・そういうふんい気がチャーンと残っていたホンマモンの色街だ。父親は6つのとき亡くなったが「男の子は全員、早稲田大学に行くようにと遺言までするような人。母親の関係から、新派の役者や芸者衆がおケイ古でしょっちゅう家に出入りしている、そういう環境である。「人力車に乗った芸者さんなんて、ちっともめずらしくなかった。高2ぐらいのときかな、夜道を歩いてたら、芸者が2~3人笑いながらやってくる。酔っ払いめ…と思ってよけて通ろうとしたらちよっと、なっちゃん”。よーく見たら、中学のときの同級生なのネ。それも、ちよっと好きだった子。ちくしょう、だれが女にしやがった、太った中年男か・・・とくやしくて、その晩は眠れなかった。将来は絶対、黒塗りの車で、オレが身請けに行ってやるから…と決意しました。子供育てる場所じゃないですよネ、どんな人間に育ってしまうやら・・・」が、那智少年は、いわゆる軟派の遊び人じゃなかった。環境が反面教師になったというべきか、あるいは父親の影響か。「中高校生のころってのは、日本的な写実小説、私小説の世界にのめり込んでいた。織田作之助)から葛西善蔵までね。それと、明治座通い・・・」当時の明治座といえば、新派では花柳章太郎、大矢市次郎、水谷八重子らそうそうたるメンバーの全盛時代。新国劇では、辰己柳太郎、島田正吾がすばらしい剣劇をたんのうさせていた時代だった。

大道具に異常な執念

中10のとき、新派の芝居をみて、その舞台装置に魅せられてしまった。それからは日参。学校終わるとカバン放りなげて明治座に飛んでいく。130円で昼夜通しでみれたんです。でも、1ヵ月ぐらいで資金切れ。それで、オフクロに明治座の頭取に話つけてもらって、タダで楽屋から入れてもらえるようになった。結局、8~9ヵ月、一日も欠かさず通いました。1ヵ月は出しものは変わんないから、毎日、おんなじ芝居をみるわけ。セリフはもちろん、大道具、小道具の出し入れの時間など、ぜんぶソラでおぼえましたヨ」並みの集中力ではできないことだ。そういえば、織田作はともかく、中学生で葛西善蔵にのめり込むなんていうのも異常といえば異常。この集中力、瞬時偏執狂的なところは、大学に入学し、西欧演劇に没入していく課程でもいかんなく発揮される。「大道具やりたいと思っていましたから、大学へは行きたくない。おやじの遺言で早稲田行くことになっていて、兄貴たちは現にそうしてたんだけど、ぼくはイヤで家出しちゃった。早稲田の願書提出日過ぎてヤレヤレと思い家へ帰ったら国学院はまだ受けれるぞ、国文なら勉強しなくて大丈夫だろ〟と兄貴に書類出されて」しかたなく大学へ入ったが、ハナから国文の勉強するつもりはないから、毎日、演劇部通い。「国学院の演劇部の先輩ってのは、そのころ、ほとんど劇団四季に行っていたんです。それで四季のアヌイやジロドゥーの芝居を見るようになって…。それまでが、四畳半的な日本的情緒の世界一色だった反動でしょう。まさに、目の前がバアーっと開けるって感じでヨーロッパ志向へとなだれ込んでいった」ギリシャ悲劇からコルネイユ、ラシー又アヌイ、ジロドゥー、コクトー再びのめり込むように片っぱしから読破していったのは、日本文学のときとご同様。

声優はフランス演劇熱の余波

声優の道に踏み込んでしまったのも、このフランス演劇熱の思わぬ余波から。これらの戯曲を上演すべく、仲間と劇団を作っては潰していたのだそうだが、「なぜだか、いつもぼくは経理責任者にされてしまう。つまり借金は全部、ぼくのところに残る。26のとき、ハッと気づいたら70万円の借金です。10数年前の70万ですからね。その金返すために、アテレコの世界に入った。1年間夢中で働いて、それで完済し、やれやれこれでタレント業から足を洗えると思ったら、事務所からナポレオン・ソロ”のオーディションだけ受けてよ、大丈夫、ほぼ愛川欣也に決まってて、おまえ、落っこちるからって保証されて、顔立てるために受けたら、その日に即決。じゃ、あと、この一本だけネってことで、今日にいたるわけで・・・」こういう万なするかちといつて、野沢さんが、決して声優の仕事を片手間と考えているわけではない。当初は、単なる借金返しが目的であったにしても、いったん、それに首をつっ込んでしまったら、好む好まないにかかわらず、たちまち、その仕事に没頭し、一流以上の一流になってしまうのが、この人の多才さの悲劇といえば悲劇。アニメ初期のアテレコ風景を、さもなつかしそうに回顧する。「狼少年ケン””悟空の大冒険〟〝どろろと百鬼丸”、ずいぶんやりましたが、当時のほうが作品の質は高かったんじゃないかな。作る側に、新しいジャンルに挑戦するんだっていうものすごい意欲がありましたからネ。アテレコでも台本はあるんだけど、全部アドリブでやっちゃったりネ。オイ、一人ぐらい台本みろよなんて、楽しかったですヨォJまた、いったん首をつっ込んだ以上、さして、頑張っているふうに見せず、さりげなく、しかも確実に、その仕事をやりとげてしまうというのも野沢さんのすごさのひとつ。

商業演劇へも進出!?

いい例が、薔薇座の13年におよぶ活動だ。薔薇座クラスの新劇団では、公演を打てば赤字が出るというのが演劇界の常識。それを設立目的だったラシーヌ8作品連続上演をきちんとなしとげたのみならず、いまや、腕一本で三階建てのケイコ場までたて、50人の団員・研究生をようするまでに育てあげ、いまだって公演自体でもうからないことに変わりはないのに、今後は月2回公演を目標にするというコンスタントな活動ぶり。「ここ数年は、ブロードウェイ・ミュージカルばかりやってましてネ。英語は見るのもイヤだったけど仕方ない、30の手習いで、辞書片手に台本や解説書読みまして・・・いまでも英語は苦手だけど、おかげで『新・エースをねらえ!』で英語のセリフしゃべらされたときも(注、左記力コミ参照。2月24日、3月3日放送分)、なんとかゴマかせました」とニガ笑い。苦労した、頑張った、これだけやった、後をふり返りそういうセリフをはくことは口がさけたってやらない。そぶりにさえみせない。どころか、その目と心は、まるで20代の若者並みに、未来にむかってんでいるという感さえ受ける。ことしは4の手習いて、商業演劇舞台に出てみようかと思ってるんです。東宝とか、ああいう。むしょうに舞台の役者、やってみたくなりましてネ」でも、そろそろ、腰すえて、落ち着いて、家や別荘も建てようなんて・・・「腰すえて、納まってって、なれそうもありませんねえ。だいいち、どこへ落ちつけばいいのか。落ち着くとこないもの」これが一生の仕事、目標と、いつまでたってもいいきれないのは、青少年期、もう烈な文化的飢餓感の中で育った影響かもしれないといった。ふり払ってもふり払っても、その活躍が華々しい分に比例して、ぬぐいようもない深い虚無感の漂ってくる人である。江戸町人、下町っ子なんて安っぽいものではなく、閉鎖された社会で、その多彩な才能を、狂歌や川柳、あるいは怪奇文学の中に発散させ、西欧文学の高みに匹敵する文化の華を咲かせた蜀山人、上田秋成、あるいは平賀源内。野沢那智には、あの江戸町人のにおいがする。(ナッちゃんファンへのお知らせ。野沢那智演出の薔薇座公演、ミュージカル「ストップ・ザ・ワールド」が3月31日~4月8日、東京都文京区千石の三百人劇場で行なわれます。

1982

January

Spotlight [“Legends of Japanese Voice Actors”, My Anime]:

昭和五十六年九月四日の夕刻、東 京・水道橋の労音会館の玄関前に、 高校生、OLなどの女性を中心とし 長い列が続いていた。開場がすで に三十分以上もおくれているため、 行列は後の人たちに押されて団子の ようにふくれ上がっていた。 会館ホールでは、この日から始ま 劇団薔薇座”公演「グリース」 の舞台稽古がまだ続けられていて、 この舞台の演出者、〝薔薇座〟の総帥 野沢那智の叱咤する声が場内に響き わたっていた。やがて客入れとなり、 ロックンロール・ミュージカル「グリ ース」が、オープニング・ミュージック も高らかにスタート。期待に胸はず ませたヤングたちの視線が、一斉に 舞台に注がれた。井上和彦、戸田恵子 らアニメでおなじみの声優たちが、 薔薇座”の劇団員らと共に激しい ロックンロールのリズムに乗って、 ステージいっぱいに飛び跳ね、踊り、 歌い、躍動感あふれる世界を創り出 し、ドラマが展開していく。観客席 いっぱいのヤングたちは、三十分も たたぬうちにはや興奮し、手拍子を 打ち、体を前後左右に揺すって、舞台 と混然一体となり酔いしれていた。 そして、舞台はグングンとヤマ場に 向けて盛り上がっていく―。。 客席最後部にいた野沢那智の握り しめた拳に、知らず知らず力が入っ ていた。エンディングとなり、感動 した観客の割れるような喝采がいつ までもいつまでも続いた。ほおを紅 潮させ、興奮を語り合いながら帰っ ていく若い観客たちを送り出した後、 彼はポケットからタバコを取り出し て大きく一服すると、夜空を仰いで 静かにくゆらせた。 「…………やっぱり、やってよかった」 煙の行方を見つめていた彼の唇か らふと、そんな言葉がもれた。

あれは六年前のことだ。アメリカ 演劇をこの目でしっかりと確かめて みたいという、かねてよりの念願が やっとかなえられ、ニューヨーク・ ブロードウェイへ旅した時のことだ。 初日に、それが、ミュージカルで あることも知らずに飛び込んだ劇場 で上演していたのが、この「グリー ス」だったのだ。ロックンロールの 強烈なリズムに乗って、無名の若い 俳優たちが、若さをぶつけてエネル ギッシュに歌い、踊り、そして演じ ていた。 その柔軟な肉体、伸び伸びとした 歌唱力、それでいて的確で豊かな人 間の創造。……彼は目を見はって驚 いた。それは今までに感じたことの ない新鮮な驚きであった。 「これが、本当のミュージカルなの か!」。彼はこの時、この感動を何と しても日本の若者たちにも分かち与 えたい、いつかきっと自分の手でこ の「グリース」を東京で上演してみ せるぞ!と、震えながら心に誓っ たのだった。 あれから六年もかかったが、つい に上演権を買 い取り、東京 での上演にこ ぎつけること ができたのだ。

「……みんな よくやってく ダンスの特訓 に歌のレッス ン、そして、ド ラマの稽古。 みんなをムチ 打つようにし てやってきたこの三ヶ月のハードな 稽古を振り返ってみて、彼は思わず 感傷的な気分になっていた。 「さあ、次だ。次の公演の準備だ!」 彼はそんな感傷を振り切るように タバコの火をもみ消すと、足早に事 務所のほうへ消えていった。 この後、劇団若手の研究発表会、 そして、十二月にはアトリエ公演が 控えている。彼には片時のヒマとて ないのだ。

野沢那智、昭和十三年一月十三日、 東京は下町の浜町河岸で生まれた。 父は大衆小説家、母は小唄のお師匠 さんであった。 彼と演劇との最初の出 会いは、中学一年生の時。 母に連れられて、自宅近 くの明治座に新国劇を見 に行った時のことである。 舞台では、新国劇の両 雄、島田、辰巳が熱演し ていた。……だが、彼が 身を乗り出すようにして 見入ったのは、なんと役 者の演技ではなく、次々 に変わる大道具の転換で あった。一瞬にして屋体 崩し(セットが崩れ落ち ること)となり、セットが変わり、二 重舞台が回り、場面転換、背景が上 にとび(上がり)、左右にはける。た ちまちのうちに屋内が屋外に、冬景 色が春景色に変わる。まるで大仕掛 けのマジックを見る思いがした。 彼は家に帰るや、早速、ボール紙 やベニヤ板や割りばしを使って、い ま見てきたばかりの舞台のミニチュ アを作り始めた。どん帳(幕)も上げ 下げできるように作った。それ からの毎日は、まるで憑かれたかの ように、ミニチュアセットの製作に 熱中した。 と同時に、明治座通いが始まった。 学校から帰ると、カバンをほうり投 げるようにして明治座へ一目散。 母 のお弟子さんには役者さんが多かっ たので、楽屋への出入りは楽にでき、 楽屋番のおじさんたちともすぐに仲 良しになれた。明治座はたちまち彼 の勉強部屋か、遊び場のようになっ てしまった。 裏から見る演劇の世界は、客席で 見る感じとまるで違っていた。裏で 働く人たちは、役者とは違うところ で苦労し、工夫をこらして研究をす る。そうした裏方の苦労により、華や かな舞台が創り出されていくのを知 った。彼は急速に、舞台装置家にな る夢を育み始めていた。 中学を卒業、都立白鶴高校へと進 む。もと、良妻賢母教育で有名な女 学校、戦後、男女共学とはなったも のの、校風は伝統となって根強く生 き続けていて、生徒数は女子が圧倒 的に多く、男子は女子の半数にも満 たなかった。 彼は迷わず演劇部へ。ここでも部 員はもちろん、女子のほうが多かっ た。彼は、演出から舞台装置や照明、 そして役者と、忙しく駆けずり回っ た。彼のユニークな活躍ぶりを見て、 先生が朝礼の訓辞に、彼の多才な活 動ぶりを取り上げて絶賛したほどで あった。 「いやあ、あれがいけなかったんで すね……」と、彼は当時の〝熱狂 ” ぶりを思い出して苦笑する。先生に ほめられたばかりに、ますます調子 に乗って学業を怠り始めるようにな ってしまったのだ。午後の物理や数 学の授業などはもう出席せず、裁縫 室に立ち込もり、タチ台を舞台にし て、演劇の稽古に熱中。「彦市ばなし」 などを上演した。 担任の先生もそれを半ば認めて、 しかりもせず好きにさせてくれた。 彼はそれをいいことにますます授業 をサボリ始め、演劇活動をしていた。 ・・・・だが、当然の結果として、やが 無残な日が訪れることになる。 期末試験。物理、生物、数学は白 紙答案。問題そのものがなんのこと やらわからないのだから、答えられ るはずもなかった。重ね重ねの追試 も結果は同じ。彼に好意的だった先 生でさえ、あきればててしまったよ うだ。そして、3年生の時の学園祭 でのことだ。クラスで何かハデなこ とをやろうということになった。 の発案で、浴衣姿で盆踊りをやろう ということに衆議一決。 学園祭の前 夜、やぐらを組んだ。当朝、出勤し てきた校長と教頭は腰が抜けるほど 驚いた。真っ白に化粧して、真っ赤な 口紅をぬった女生徒たちが、裾から 赤い蹴出しをチラチラさせて、浴衣 姿でウロウロしているではないか。 良妻賢母教育で有名な我が校の伝統 をけがす一大事件発生・・・・・・とばかり に、真っ青になった教師たちの手に よって、たちまち、やぐらは崩され、 生徒たちは制服に着替えさせられて しまった。 一度は、活動的で個性があり、 力もある高校生として絶賛された彼 であったが、今度は白紙答案の劣等 生、伝統ある校風を乱すフラチな生 徒として、放校に近い退学勧告を受 ける身となってしまった。 学校側の呼び出しに、母は驚きも せず、しかりもせず、素早く転校先を 見つけてくれた。「もう、これ以上お ふくろに心配かけさせるのはやめに しよう。今度こそ、一生懸命勉強す るぞ!」と心に誓って転校してみ たら、新しい高校は何をやってもい っさいおトガメなし、授業はサボル のが当たり前のよう。それどころか、 エスケープをクラスメイトに誘われ て、断ったらブンなぐられた。いつ しか誘われるままに授業をサボリ、 盛り場などをウロックようになって、 補導を受けるようにもなってしまった。 こんなことをやっていたら、おれ はダメになる。といって、演劇活動 に打ち込みたくても演劇部もない。 「そうだ!どこかの劇団に飛び込 んで、プロの演出家になる修業をし よう」と、真剣に考え始めた。 折しも受験期、母親たちは、早稲田 大学への進学を執ように勧めるよう になってきた。父も兄たちも、早大出 身だったからだ。彼は劇団に入るこ と主張し、あくまでも大学進学を 拒み続けたが、両親たちは頑として それを認めてくれようとしなかった。 火の気のない部屋に閉じ込もり、 彼は自問自答した。「おれの人生はだ れのためにある。おれの人生はおれ のものだ。おれの人生は一回限り。 おれの人生はおれが決めるのだ。お れから演劇を取り上げたら何が残る だろう。おれは演劇の世界に生きる しか能のない男だ」。青年だ!やり たいことをやれ、人間一匹、どうやっ たって生きていけらあ・・・・・・。そう考 えたら、あっさり結論が出た。 「母さん、ゴメンよ……」とつぶや くと、ボストンバッグ一つ抱えて、 彼は家を飛び出した。 外は凍てつくような寒さだったが、 その夜は東京には珍しく、星が降る ようにまたたいていた。 以下次号。

(文中敬称略)

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