Kazuyuki Sogabe

1979

June

Feature [“Seiyuu 24 Hours”, Animage]:

神谷明、水木一郎と同室さる4月5日から8日までの4日間、東京・有楽町の日劇で行なわれた『第1声優フェスティバル』の楽屋に曽我部和行さんを訪ねた。春休みを利用し、全国各地からかけつけたファンで、4日間計8回の公演は連日大入り満員の大盛況。ファン、出演者側双方に、アニメに無理解な大人たちのいわれなき軽視の目に耐え、この日の来るのを待っていたという思いがあったせいか、会場には、ふつうの演劇公演や歌手のリサイタルではみられない、門外漢でさえも、ふっとひきずり込まれてしまいそうなうきうきとエキサイトしたムードがいっぱいだった。地下の楽屋1号室。「水島裕、古谷徹、田中秀幸、石丸博也」の名札のかかった隣り10号室が曽我部さんの部屋で同室は神谷明、水木一郎さんなど。第1部で『野球狂の詩』の火浦を演じたばかりの曽我部さんは、上から下まで黒ずくめのニヒリスチックムード。スマートな体がいっそうスリムに写る。173秒、56㌔です」「ガリガリですね」といいかけたとたん、曽我部さんに輪をかけた〝吹けば飛ぶよ”スリム男・神谷明さんがヌーッと入室。やめた、ちょっとカドがたっちゃう(a.)°「日劇でこういう公演うって満員になるっていうのは、決していま放送されていアニメの成果じゃないと思うんです。鉄腕アトムとかあの時代からずっと積み重ねられてきたものが、いま顕在化してきたんだと思うんです」なんとなく、二枚目っぽく、かしこまった感じでインタビューを開始したのだが、あわただしく部屋に出入りする神谷さんなんぞが、ときおり、曽我部さんの言葉ジリをとらえてひやかすものだから、やりにくいことこのうえない。

ズブのシロウトが劇団へ入る

なにしろ、このふたり、かつて劇団『テアトル・エコー』で同じカマのメシをくったことのある芝居仲間。熊倉一雄、山田康雄といった面々のずーっと後輩にあたるが、30歳(曽我部)と3歳(神谷)、年もちょうどつりあったご同輩だから、たがいに裏も表も知りつくしている仲なのだ。もっとも、曽我部さんのエコー入りは神谷さんと違い、かなり変わっていた。「大学4年で中退して、アッ、大学名はちょっと………。歌手になろうと思って、学校行ったんです。その学校というのが、芝居志望の人もくる学校だったんです。それで、合同公演やって、小学校の学芸会以来、ほめられたわけです」ほめられると「すぐその気になる」性格だそうで「じゃア、芝居やるかなァ」。で、どこの劇団が自分に合うかと芝居をみてまわり、テアトル・エコーにねらいを定めた。オーディション受けてみごと合格。即、入団したのが22歳のときだった。言葉だけだと、ずいぶん簡単に聞こえるが、冷静に考えてみりゃ、これ、ずいぶん乱暴な話だ。「大学までは、演劇なんてケほども興味なかった。硬派もいいところで、高校時代は剣道部所属の剣道二段」そんな男が、20歳を過ぎてから、右も左もわからず、しかも、いつ芽がでるとも知れない演劇の世界にメクラめっぽうに飛び込んでいったのだから…..。加えて曽我部さん、高2のときに父親をなくして母親ひとりの手で育てられたひとりっ子である。「母親にいうときだけはつらかったですネ。大学4年で中退、しかもサラリーマやめて芝居やるなんて……。でもねえ、結局、この世界、運とチャンスがかなりものをいうと思うんです。9年前、エコーに入団した同期生が4人。いま残っているのは、いちばん演劇にドシロウトだったぼくをふくめふたりだけですからね」

員数合わせのオーディション

曽我部さんにとって、あれがチャンスだったナァって思うことは?「4年か4年の“破裏拳ポリマー”のオーディション。声のオーディションで、やるときには、実はもう決まっているんです。で、オーディションやってみて、その決まっている人よりうまく、しかもギャラの安いのがいれば、はじめて採用するってのがふつう。ポリマーのときも、劇団からアテ馬だよ、あくまで員数あわせ”っていわれて、神谷くんたちと受けにいった。いいやと思いながらやったら、これがトチリにトチル、メロメロの演技。ところが、相手役の女の子のほうも、トチリのメロメロだったんですネ。”トチっておもしろい”っていう妙な理由でハイ採用。わかんないものですよ」たしかに、この最初のアニメのアテレコをきっかけに「野球狂の詩」「マシーンハヤブサ」「ボルテスV」等々、20代というこの世界では異例の若さで二枚目声優の道をひた走り。実物も、容姿風体とも、ごらんのごとく、現代風二枚目。―私生活でもやっぱり二枚目?と話題を変え、曽我部さんが「本人は、そのつもりなんですけどネェ」と答えたとたん、横あいから「クスッ」と、たまりかねたような笑い声。公演の手伝いに来ていた神谷明夫人(戸部光代さん)である。

インベーダーゲームにこる

「なんだよぁ、なにがおかしいの」と苦笑しつつ、神谷夫人をにらんだ曽我部さんは観念したように、「つもりなんですが、どうも、ポカッと抜けてるところがあるようでして」…船橋の自宅に帰るべく、夜おそく地下鉄日比谷線に乗ったものの、そのまま眠りこけ、中目黒─北千住間を終電になるまで3往復。結局、深夜、北千住から船橋までタクシー飛ばすハメになったとか。あるいはテレビゲームで、まわりの小学生が7000点、8000点だしているのを見て小学生が出せてオレに出せないはずはない”とカッカカッカ、気づいてみたらサイフの中はカラッポだったとか……。「つねにピリピリ神経はりめぐらしているようでいて、そういうポカをしょっちゅうやっちゃうんですネ。やっぱり三枚目なのかナァ」所属するテアトル・エコーには熊倉、山田康雄クラスの大先輩がひしめいているため、曽我部さんの表面だった活動はどうしても声優の仕事に片寄りがちだ。「でも、芝居を離れるつもりはまったくありません。むしろ芝居、あるいは劇団は、ぼくがマスコミの中で仕事をしていくうえでの心の支えであり、唯一もどっていける場所なんです。もし、声優一本のタレントとしてやっていくとなったら、たとえば、若手がオーディションなんかでどんどん進出してきたとき、不安でしようがないと思うんですネ。ボクは、そういうイライラした状態で仕事はとてもできないと思う。あそこへ帰れるんだという、安心感を失いたくない」「芝居が好きだから」という月並みな表現でないぶんだけ、より真実味のある言葉に聞こえた。そういえば、芝居をやることの魅力について、こういう表現もした。

舞台の魅力とはこれ!!

「ほんとに演劇のエの字も知らないで劇団に入って、周囲がみんな役者になったからには、一度はハムレット”やりたい、そんな夢を抱いている連中ばっかりでしょ。なじめないし、やめようと思ったこともあった。でも、何回か研究公演を重ねてみて、その公演中の一回のトチリでコロッと変わった。2秒分ぐらいだったけど、セリフポーンと飛ばしちゃったんです。瞬間、カァーとする、どうしようどうしようと思っているところへ、相手役がなんとかつじつまをあわせてくれた。それにこちらも合わせて最後までもったんですね。芝居っておもしろいなと思ったのは、そのときからです。苦しんで苦しんで、頭ん中がまっ白になって、その極点のところでボッと光明のみえたときの気分というのは表現しようもない」実のところ、もうかりもしない舞台の仕事が、なぜそれほど魅力的なのか、これほど素人わかりのする具体的な説明をしてくれた役者さんは曽我部さんがはじめて。大学を終えてから、はじめて演劇の世界に首をつっ込んだという特殊事情が、彼に、素人、いいかえれば観客の側の心と言葉を失わさせずにいるのか。ともかく、話していて、不思議なほど役者臭、芸能人臭さを感じさせない人である。狭い通路でエイヤッ!「曽我部さーん、そろそろ、用意お願いしまーす」話の途中、通路から声がかかった。第3部のバラエティ・ショーで彼はテレビに出演する謎の美剣士役で出演の予定。「ちょっと失礼」と着物をひとかかえにして隣室に消えたと思ったら、5分もたたないうちにゾロリとした着流し、腰に大小さした素浪人スタイルで再登場。刃をパチン、パチンと抜きさししながら、なにやら、ワクワクしているような表情と足どり、さては、昔とったキネヅカ、舞台でヤットウ抜いて、剣道の腕前披露できるのか……と思ったら、やにわにエイッと刀を抜いて、狭い通路でエイツ、ヤツ。「剣道と舞台の殺陣って、ぜんぜん違うんです。刃を頭より後までふりかぶるなんて剣道では絶対ダメ。でも殺陣じゃ、ふりかぶるでしょ」実演入りで教えてくれた。「ワッ、かっこいい」。ヒヤかして通り過ぎていった神谷さんは、テレビ局にオーディションを受けに来る青年の役で黒い学生服姿。ワルイけど、ちょっと楽屋に中学生がまぎれ込んできたみたいな感じ。これも、ニコニコ顔だ。ワクワク、ドキドキって感じの声優さんたちの表情をみていてハッと気づいた。曽我部さんをふくめ、声優さんのほとんどは、本職は舞台役者。晴れの日劇での芝居は楽しいはずだし、うまいはずだ。この舞台で数々の公演を手がけた田口豪孝プロデューサーが、「とにかく、お客さんのアニメファンの目は肥えている。即席のニセモノは絶対見破られるということをキモに銘じ、コントひとつにせよ、何度も舞台ゲイコを重ねて作りあげたものです」と胸をはるとおり、ヘタな商業演劇そこのけのすばらしい出来ばえだった。ちなみに、曽我部さんの美剣士は、並みいる侍をバッタバッタと切りたおす初めこそカッコよかったが、最後は、寄ってたかってまるはだかにされちまうというなんともシマらない三枚目役。それがまた、よく似合った。なにしろこの人、着物をきて歩くその後ろ姿をつぶさに観察したところによれば、ちょっと肩すぼめちゃって、さっそうたる剣士というより、あの楽ちゃんこと三遊亭楽太郎そっくり。ウソだと思ったら、写真とじっくニラメッコしてみて下さい。

1981

May

Comment [for Queen Millennia, The Anime]:

僕は今まで、悪役というのはあまりやっていないんで す。 今回は、 ドロボーはしないけど、 1000年盗賊という 名の悪役。 それもボスですから、大はりきりなんです。 ところで、この1000年盗賊のボスって、 弥生さん以上に 謎がありそうでしょう? 実はね、ものすごい秘密を持 っているキャラクターなのです。 最後のドンデン返しを 楽しみにしていてくださいね。

November

Feature [“Seiyuu Free Time”, Animedia]:

家が剣道場だった

その日は、朝から強い風が吹いていた。寺の境内 を吹き抜ける一陣の風。 枯葉が舞い、土ぼこりが立 ち上る。そして空を覆い始めた暗雲に、何か起こり そうな予感が…..。その時だった、境内の石畳をふ みしめる、静かな足音が近づいてきたのは。振り返 ると、そこには紺のはかまのすそを風にひるがえし、 髪のふくらんだ一人の長身の剣士が立っていた。 ここは武蔵国、今でいう東京都。そしてこの長身 の剣士こそが剣道二段、曽我部和行その人だったの である。 「台風が来そうですねえ」 と言いながらやって来たガベさんに、まずは剣道 を始めたいきさつ”などを聞いてみた。 「父が千葉県の船橋で剣道場をやってまして、僕は 二つくらいから父に連れていかれて、道場でゴロゴ ロしていたり、ピーピー泣いていたりしていたわけ です。気がついたら道場にいたって感じで。でも、 竹刀を持ったのは五つくらいですかね。初めて防具 を買ってもらったのが小学校一年の時でしたから」 その頃から剣道は好きだった? 「僕は少年合唱隊とかね、そういう方に興味があっ たんですが、父はいやだったみたいですね。父は僕 が道場についていくと、喜んでいましたからね」

やたら、いじめられた記憶が… 剣道やっていたから、チャンバラごっ こやケンカも強かったのでは? 「あんまり関係ないみたいですね。や ぱり実戦武術じゃないですからね。 記憶 にあるのは、やたらいじめられていたっ てことです。ケンカが強くないんです、 僕は。 でも泣いたり、参った”とか言 わないんですよね。血だらけになっても 最後まで向かって行くもんだから、相手 があきれちゃって・・・・・・」 どうして、いじめられたんだろう? 「なぜか女の先生に可愛いがられたんで すよね。 それがクラスのガキ大将なんか からは白い目で見られてね。それと、学 校が終って遊ぼう”って言われた時に、 剣道の練習があるからって帰っちゃうこ とも多かったし、そういう付き合いをし なかったこともあるかも知れません」 それと、その頃のガベさんはクラス委 員をやったり、真先に手をあげたりする “良い子” でもあったのだ。 「戦後で食べ物もなく、いとこなんかが 十三人くらい家にいたんです。一人っ子 だったんですけど、おふくろにあまりか まってもらえず、さみしかったんでしょ うね。可愛いがって欲しい、ほめてもら いたいっていうことがあったんでしょう かね。目立ちたがり屋だったんです」

父の死で大人に・・・

ところで、ガベさんが初段を取ったのは中学、 二段 を取ったのは高校二年の時だ。当然、剣道部でも活躍 !と思ったのだが・・・・・・。 「学校の剣道部っていうのは、一切やったことがない んです。防具を付けて運動場を走るのが嫌いなんです。 剣道ってスポーツじゃないって、僕は思ってましたか らね。体力作りって考え方はしてなかったですよ」 ガベさんは、剣道にもっと精神的なものを求めてい たようだ。 「寒げいこなんていうのは、暖房も何もない所で、裸 足でもって板の間を、まず水とぞうきんでふくところ から始まるんですよね。足なんかこごえちゃうし、そ ういうことをやって来て、がまん強さとか耐えること は覚えましたね。だから剣道っていうのは、そういう 精神的なものだって思ってました。剣道はスポーツじ ゃなくて武術だって」 結局、学校の剣道部の考え方とは合わなかったらし い。ただ実力はあったので、他校との対抗試合には応 援で出場したそうだ。 そして突然の不幸が、曽我部家をおそう。 「高校二年の時でした。 二段に受かって、オヤジに喜 んでもらったら、すぐ死んじゃいましてね。 急性白血 病でした。 二段が受かって、まあ良かったとは思って います。 親孝行って言えるかどうか分からないけれど も……」 この時、ガベさんのお父さんの残した遺産をめぐっ て、親せきとの間で争いが起きた。 「それまで大人って、僕は立派なものだと思ってたわ けですよ。それがわずかな家や土地だとかに、あんな になるもんかなと思ったですね。父が死ぬまではいい 人ばかりだったんだけど、急に悪い人になっちゃった んですよ。しかもおふくろが悲しくて仕様がない時に ね。〝おふくろをいじめるな”って気持ちが先だった ですね。包丁持ってね、飛びかかって行きました」 それまで両親に守られて育ってきたのが、急に、 大人の中へ放り出されてしまったのだ。 「曽我部家の代表として出て行き、発言しな くちゃいけない。それからはまず黙ってて、 様子を見てからよく考えて発言するとい しょせいじゅつ う、変な処世術を身につけちゃいましたねえ」

歌の勉強のつもりが

お父さんの死後、ガベさんはお母さんの手で大学 に進むが、大学四年の秋、卒業を目前にして中退し てしまった。 「サラリーマンになるのが嫌だった。それがおふく ろに黙って中退しちゃったんですよね。えらい騒ぎ になりまして、一年間くらい口をきいてもらえなか ったです。おふくろの安い月給で大学へ行かせても らってたんです。そりゃ、そうですよね」 ガベさんはそのまま、日本テレビのタレント養成 所に入り、歌の勉強を始める。小さい頃は少年合唱 隊にあこがれ、中学三年でエレキギターを始め、大 学ではセミプロ級の腕前だったほどだ。 「楽器を始めたのはね、ベンチャーズがはやってい た頃でしたね。高校ではエレキバンドを組んでいま した。その頃はもう猫もしゃくしも、ちょっと耳を 澄ませば〝テケテケテ・・・・・・”と聞こえてくる時代で したからね」 そうあの頃は、ビートルズとかグループサウンズ が若者の話題の中心で、長髪とかエレキギターとか が、PTAの目のかたきにされていたのだ。校内暴 力はまだなかったけど、何となく”エレキは非行の 始まりだ”みたいな考え方があった時代なのだ。い つの世も大人は無理解なのだ。 「バンド始めたのも、そういう考え方に対する反発 があったかも知れませんね。それに、中学から高校 になるにつれて段々、スポーツで抜きん出ているわ けでもないし、学業も抜きん出ているわけでもない。 それに対する反発もあったかも知れない」 自分の存在を他に示したいっていうのは、誰でも 持っている考えだよね? 「そう、その表し方が、それぞれ違うだけでね」 女の子にモテたいっていう気持ちもあったんじゃ ない? 「ありましたよ。でも女の子にはモテなかったです ねえ。中学、高校で 必ず大体みんなが可愛い なあってコを好きになったですね。常識的で斬新じ ゃなかったんです。もう少し好みを変えておけば、 独自な生活が送れたかも知れないです、ハハハ」 女の子、男の子にモテない読者の皆さん! 斬新 になりましょう。それでも〝独自な生活〟が送れな い皆さんは、記者と一緒になぐさめ合いましょう。 「オクテだったんですね。付き合い方を知らなかっ たから、大学で女の子と学園祭に行った時、困りま したね。 体こういう時には、どういう話をするも んなんだろうとか。そういったこともあって、反面 硬派ぶってたわけです。学校の演劇部を見りゃ、” の男が芝居なんかやりやがって、何だ軟弱が”なん て思ってましたよ」 ところで歌の勉強でタレント養成所に入ったガベ さんは、そこで演劇の才能を見い出され、軟弱な芝 居の道へと進むのである。 「テアトルエコーに入る時の筆記試験の成績は、す ごく悪くて35点かな。 急に芝居の勉強を始めたもん だから、全然、言葉を知らないんですよ」

ボーリングって、アフレコとよく似てる

劇団入って一、二年ぐらいは食えなくて、ボーリング場のレ ーンそうじなんかのアルバイトをやってました」 その頃はボーリングの最盛期で、ガべさんはそうじが終ると、 夜のレーンでボールを転がしていたそうだ。 「フリーパスでどんどん投げられたんですよ。大体アベレージ で10くらいでしたからね。今は10から10ですけど」 最初にボーリングを始めたのは? 「大学の一、二年の頃ですね。教えてやるよって、連れて行か れたんです。初めはピンを倒すのが面白くてね。それでやみつ きになったんですねえ。毎日のように通いました。大体三人く らいで行って、握力がなくなるまで投げました。こり性なんで すよ。 ギターもそうだし、一時期ブロック崩しのテレビゲーム がはやりましたね。あれもすごくこったんですよね」 ガベさんはボーリングがアフレコとよく似ていると言う。 「レーンに最初に立つ時ね。空間がものすごく広いものだから 人前にポツンと立たされたような気持ちになるんですよね。 そ れがちょうど、アフレコでマイクの前に立つ感じなんですね。 初めてアフレコやった時、すごく似てたんでびっくりしました」 確かに他のレーンの人なんか見てないのに、何となく自分が 後ろから注目されているように感じて、緊張するね。 「アフレコだって、誰も僕の後ろ姿なんか見ちゃいないんだ けどもね。 妙に緊張しますね」 今度ボーリングをする時は、アフレコの気分を味わいながら やろう。また、声優志望の人は、ボーリング場でアフレコ台本 を読んで練習するといいかも。それには度胸が必要だ。 ところで、ボーリングのだいご味って何だろう? 「ストライク取るのもそうだろうし、スペアが取れるとか、ス プリットをうまくこなせるとか、そういう楽しさもありますね」 フラストレーションの解消にもなるんじゃないかな? 「思いきり投げるだけでも大分違うし、ピンを倒した時なんか は、食器をガチャンとたたきつけるのと同じじゃないかな」 家で奥さんとケンカして、食器投げたりするの? 「昔は短気でしたよね。結婚してからはちょっと歳が離れてる せいか、もうケンカはしないですよね」

剣道が自信となって芝居の上に・・・

剣道二段、そしてギターの腕前も相当な ガベさんにとって、この二つは何か仕事の 上でプラスになっているのだろうか? 「剣道は殺陣なんかで役に立ちますよね。 ただ剣道にしてもギターにしても、直接は 芝居の役に立たなくても、それなりに努力 した一時期があるわけですよね。 その時の 記憶とか、自信っていうものは大きいんで すね。人に誇れるものが何もないっていう のは、芝居で板の上に立っていても自信の ないものなんですね」 誰よりも剣道がうまい、人よりもギター が上手に弾けるという自信が芝居の上で、 実力以上のものを引き出すと言う。 「そういう自信を持って他のことをやると、 余裕を持ってできると思うんですよね。よ ファンのコから”なんで勉強するの”っ て聞かれるんですけど、僕は勉強を一生懸 命やる、一生懸命覚える、その記憶が大切 だって思うんですよね。勉強して何かを覚 えて何かの役に立つとか、 勉強ってそういうもんじゃな いと思う。一生懸命やったん だ、これだけ俺はやれたんだ っていう記憶が、たとえ試験 の結果が悪かったとしても、 大人になってからの自信につ ながってくると思うんです。 勉強がいやだったら、何か他 のことでもいいんですけど」 確かに自信っていうのは、 大切なものなんだ。ガベさん の顔が輝いて見えた。

死ぬまで燃焼したいと思って・・・

ガベさんはソロでレコードを出すと きには、必ず自分で曲を作るのを条件 にしているそうだ。 「それがいいことか悪いことかは別に して、レコードを出すことによって自 分に何か肥しになるものが、メリット になるものがなければ、いけないと思 うんですね。僕が今までにソロで出し たものは、全部僕が作りました。 これは別に 人が理解してくれなくてもいいんだけど、声 を入れる以前の曲を作る苦しみってものがあ るわけです。 二か月近く、それを経験するだ けでも、僕はいい勉強になってるなって思い ますがね」 今、ガベさんは作曲活動や演出などにも興 味があると言う。そしてこの10月からは『ダ ッシュ勝平』と『銀河旋風ブライガー』に、 新たに出演が決まっている。ますます、忙し くなりそうなガべさんだが。 「昔はね、一本でも多くのアニメをやること に喜びを感じていましたね。いい役やれば天 狗になり、思い上がってたしね。これは陣取 り合戦みたいなもんでね。僕が別の人よりも 本数が多ければ天狗になって、少なければ落 ち込んでいるわけですね。その繰り返しで、 はっと気がついた時には、もうくたくたにな ってたんですね」 その頃から、いろいろな人たちに自分にな い才能を見つけ始めて、ガベさんは他人のこ とが認められるようになったそうだ。 「あいつのこんなとこが、俺には真似できな い、俺にはないものだって気がつき始めたん です。30に手が届き始めた時ですかねえ」 アニメ、芝居、音楽などいろいろなものを 通して、ガベさんは燃焼したいと思っている。 それは剣道に打ち込んだ、そして剣道から得 られた精神力そのものかも知れない。 小さい 頃から養われた剣士の心として 「僕は死ぬまで燃焼したいと思ってるし、そ れが僕の人生だと思ってる。それが形になら なくても燃焼しただけ後悔が残らないから」

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