1981
July
Close-up [“Introduction to Voice Acting”, The Anime]:
樹々の緑が日一日と色濃くなる 風薫る五月のとある日曜日、緑の多 東京荻窪で、五月晴れのように爽 やかな男、彼鈴置洋孝と落ち合った。 例の、あのカーリーヘアでやって くるかと思ったら、ナントナント、 ビートルズのようなマッシュルーム カット。 そこでまずぼく、 ヘアスタイル、変えたの? 「ええ、雀が寄ってくるからやめま した。」 正直なところ、彼は今、何かを考 えイメージチェンジをはかっている のだろう。 昭和25年3月6日、名古屋は繁華 街の栄町で生れ育ち、熱田高校を卒 業すると上京、昼間は働いて夜は東 京経済大学二部へ通う苦学生となっ た。 ホテルオークラのルームボーイや ゴルフ場のキャディをやりながら大 学へ通っていたが、学究心旺盛、三 年生のときには昼間部へ編入して、 ほとんど独力で昼間の大学を卒業、 学士さまとなった。 本来なら、どこぞの商社にでも入 ってエリート社員になり、蕭洒な社 宅と赤坂か丸の内あたりの会社を往 復する安穏な生活を送るはずだった のが、どこをどう間違えたか、野沢 那智に憧れて劇団薔薇座にとびこん でしまった。昭和46年、彼が23歳の ときのことだ。 我々の仲間を見廻してみても、大 学卒業後、突然俳優修業に入った人 間は見つからない。大ていは大学在 学中から学生演劇にうつつをぬかし ていたが、プロの劇団の研究生にな っていたという連中ばかりである。 彼の場合、全く特異なケースとい えよう。22歳の大学出の研究生は、 高校出たばかりのピチピチした若い 仲間たちから”おっちゃん”と呼ば れ、慕われはしたが、当人にとって みれば、毎日が穴に入りたいくらい 恥ずかしかったという。 まず、タイツ姿になるのが恥ずか しかった。おシリがスースーするよ うだし、前はモコモコするし、モダ ンダンスを踊れば体はコチコチ、奴 だこの糸が切れてとんでいくような 動きしかできないしほんとうに自分 自身が哀れになったこともあるという。 劇団生活もきつかった。公演のな いときはレストランのウェイターや、 ギター抱えてスナックで弾き語りの アルバイトもできたが、一たん公演 態勢に入ると毎日が午前11時から夜 中の12時までけい。野沢那智の指 導はキビしい。次から次へと畳みこ むようにダメが出る(悪い点を指摘 くたくたに疲れてアパートに帰り、 ひっくり返って寝て起きてみたら、 また稽古場にいるという生活が続い た。 一緒に入った仲間はどんどん脱落、 大学出の、どこにも行き場のない彼 だけが残されていくようであった。 ジャン・コクトーの「円卓の騎士」 (昭和5年)が初舞台となる。以後、 「セレブレーション」「アップルツリ ―」「アルデール」「間抜け役」 と 薔薇座の舞台公演にはほとんど参加、 「アップルツリー」では戸田恵子と 組んでアダムとイブを演じ、当時話 題を呼んだものである。 昭和5年、外国映画の日本語版制 作会社として大手の東北新社が、新 人のために門戸を開きアテレコ研修 会を行っていた。彼はそこに通うこ とになった。 若いソフトなムードの二枚目役が こなせるということで、アテレコの 仕事が入るようになり、声の世界に 仲間入りができた。 アニメの初出演は、5年4月から 放送開始となった「闘将ダイモス」。 毎回、通行人Aとか、役人Bとか役 が違う番組レギュラー。それでも早 ロすぎたり、ロレッたり、何回もN Gを出し冷や汗をかいた。演出はア ニメ制作に異常なほど熱意を示して いた故長浜監督、その演出のキビし さはヴェテラン声優も尻ごみするほ どであった。彼はこの監督にすっか りきたえられた。 そして初の主役「無敵鋼人ダイタ ーン3」の破嵐万丈。 そのあと「機 動戦士ガンダム」ブライト・ノア「 「ムーの白鯨」白風信「野球狂の詩」 日下部了 「宇宙戦艦ヤマトⅢ」 太田 健二郎「明日のジョー」 マネージャ ・・・とご存知のようにアニメ出演 が続いている。 この四月、彼は住みなれた薔薇座 を去り、俳協に移籍した。舞台とア ニメの仕事の二足のわらじをはく ことが苦痛となってきたからであろ う。師匠の野沢那智も許してくれた。 今まで薔薇座で培ったものを、もっ 広い世界にぶっつけてみたい俳優 としての可能性に挑戦してみたい・・・ ・・・と彼はいう。 「男は30歳でやっとスタートライ ンに立つことができるんだとわかっ たんです。これからですよ。」と、 彼はニッコリ笑ってくれた。
