Akira Daikubara

1980

November

Feature Article [“Interview with an Anime Human”, The Anime]:

とにかく絵の描ける仕事が したかった ≈ アニメーターの方は皆さん、そうだった と思うんですけど、子供のころから絵を描く ことが好きだったのですか?

Daikubara. ええ、当時の俳優の写真を見ながら 似顔絵を描いたり、まわりのものをスケッチ したり、よくやってましたね。それで子供っ ていうのは、描いていて、他人から〝上手だ ね”ってほめられると、うれしくなって夢中

TA. になって、どんどん描いちゃうんですね。 マンガも?

Daikubara. マンガばかりでなく、ボクはだいた い気が多いほうですから、さし絵も描きまし たし、とにかく描くことが好きで、絵を描く 仕事につきたいと、つねづね思っていました。 戦前には、よく雑誌に描いたものを投稿して ました。なんていったかな、近藤日出造さん がだしていた雑誌なんですけど・・・・・・。 その雑 誌には、現在週刊新潮の表紙を描いている谷 内六郎さんなどもよく投稿していましたよ。

TA. そうしますと、アニメの世界に入るきっ かけは?

Daikubara. とにかく当時は戦前ですし、アニメ をテレビはもちろん、劇場でも見る機会って いうのは、それほどないわけでしょ。アニメ ーションは漫画映画といったわけなんですけ ど、ボクなど、その漫画映画がどんなものか も知らなかったんですから。いまもいいまし たように、とにかく絵の描ける仕事をしたい と思っていましてね。あるとき新聞の募集広 告に漫画映画というのがあったんですよ。そ れで、どんなものなんだろうって興味をひか れて、とりあえず行ってみたんです。 そこが、ボクが初めてアニメの仕事をした 鈴木宏昌漫画映画研究所だったんですね。そ こへ行って鈴木さん―この人は芦田いわお という名前ももっているんですけど に会 って、いろいろ話をしてみたんですけど、ボ クより六つぐらい年上で、とってもいい人な んですね。それで話を聞いているうちに、こ れならやっていけるなって思ったわけです。

TA. そこでは、どんな仕事をされたわけですか?

Daikubara. 鈴木さんのところには、2年ぐらい いたのかなあ……。先輩が2人いましてね。 ボクは興味がありましたから、タイトルから 背景から撮影まで、いろんなことをやりまし たね。いまから考えると、なんとも幼稚なも のですけど、一生懸命つくっていましたね。 それで、そのうち芦田さんが戦争で兵隊にと られちゃいまして、困っているところに山本 (早苗)さんから誘いがあって、山本さんの ところへ行ったんですけど、戦争でもう漫画 映画どころじゃないわけですよ。その間、ボ クは山本さんなんかといっしょに、海軍省で 絵の仕事をしていたんです。 終戦後は、昭和20年の終りごろだったか、 山本さんが、政岡憲三さんとか村田安司さん 日本漫画映画株式会社”を雑司ヶ谷につ くったんですけど、すぐ山本さんと政岡さん が日本漫画映画”から離れて”日本動画株 式会社”をつくったんです。そこへ現在、日 本アニメーションにいる森やすじさんが入り、 遅れて僕が入ったわけなんです。

TA. そのころと現在では、製作システムでも だいぶ違っていたと思うんですけど。

Daikubara. そうですねえ。セル一枚とってみて も、いまのように使い捨ての時代じゃないで すから、使っては洗い、使っては洗いで五、 六回は使いましたよ。もちろんトレスマシン もありませんから、手でトレスするんですけ ど洗ってもトレス線の跡が残っちゃうんです。 もうセルが黄色くなるまで使ってましたよ。 動画用紙にしても、いまのようにキレイなヤ ツじゃな てワラ半紙ですから、消しゴムで ささくれちゃったりね。ひどいときは、キャ ラクターに穴があいてしまったりね(笑)。そ れからカメラにしたって、いまみたいにいい ものではなくて、ドイツ製のチャチなもので ね、トラック・バックなんていっても戸の敷 を利用して、カメラを押していくんですか ら(笑)。実に幼稚なことをやっていましたよ ね。

TA. そのときにはもう、アニメーションを一 生やっていこうと?

Daikubara. 入りたてのころは、さし絵を描くの が好きなものですから、動画よりも背景を描 くほうが好きでした。当時はカラーじゃなか ったものですから、白黒でその陰影を表わす んですけど、村田安司さんがとても上手なん ですね。だから背景は、村田さんに教わった というか、盗んだというか、とにかく影響さ れました。 本格的にアニメーションでやっていこうと 思ったのは日動に入ってからですね。でもあ のころがいちばん経済的に苦しい時で、アニ メだけでは食べていけないものですから、い ろいろな雑誌にさし絵をずいぶん描いたもの です。ほかの人もみんな、いろいろなアルバ イトをやりながらアニメをつくっていた時代 なんですよ。

TA. 日動時代の同期の方には、どんな方がい らっしゃったんですか。

Daikubara. 森さんのほかには、寺 ( 勝井) 千賀 雄さん、中村和子さん、紺野修司さんたちが いましたね。

“ライブ・アクション”で作 った「白蛇伝」

TA. そのあと、東映動画の時代になるわけで すか。

Daikubara. ええ、日動は当時、東映教育映画の 委託で作品をつくっていたんですけど、それ が評判がよかったもので、 日動を丸ごと吸収 してしまい、東映動画を設立したわけなんで す。そして新しい人の養成をはじめたんです ね。大塚康生さんも東映動画になってから入 ってきましてね。ボクは当時四十歳ぐらいで 年配の方で、あとは二〇代ぐらいの人ばかり で、とても活気がありました。 いまから考えれば、東映の大川 ( 博) 社長 が漫画映画が好きだったんですね。当時とし たらいまのようにブームじゃありませんし、 冒険だったと思いますよ。まあ東映が、実写 の劇場を確保していたから成功したんだと思 いますね。

TA. そこでの長編第1作が「白蛇伝」になる わけですね。

Daikubara. そうです。あの作品は、はじめに企 画書を見たとき、その表紙にイラストが描い てあったんですけど、ヘビのグロテスクな絵 でしたね、こんなものが漫画映画になるのか って思ったものでしたよ。スタッフは演出が 藪下泰司さんで、原画がボクと森さん、美術 岡部 (一彦)さんと橋本(潔)さんで、み んな、どういうふうにつくろうかって、手さ ぐりでやってましたね。

TA. どんなところで戸惑われたわけですか。

Daikubara. まず、中国が舞台の話ということで すね。日本人ですから日本のものは慣れてい ましたけど、中国のものははじめてで、それ こそ時代考証も調べなければなりませんから ね。話の中にパンダがでてくるんですけど、 かわいい動物だなって思ったものの、その当 時ボクもふくめて、ほとんど一般の人はパン ダなんて知りませんしね。そういうものもふ くめて、動き、コスチューム、背景など、知 らないものを、ある程度調べて、それなりに つくりだして くわけですから大変なことで した。

TA. 内容的にはどうでしたか。

Daikubara. 話しそのものが、白い蛇の妖精がで てくるファンタジックなものですから、それ ほどリアルなものを要求されるわけではあり ませんし、漫画映画の素材としては、うって つけだったと思いますね。いま考えてみても ああいう素材を選んだという企画は、素晴し いと思いますね。そのあと何本かつくりまし だけど、企画の面からいえば、ボクは「白蛇 伝」がいちばんよかったんじゃないかと思い ます。劇映画ではなくて、アニメーションと して表現するものとしてはね。 話だって、いつまでも心に残るような愛が テーマの話ですし、いまのアニメのように暴 力や殺ばつとしたものがありませんでしたし ね。白娘(パイニャン)という蛇の化身と許 仙(シューシェン)という人間の若者の恋物 語なんですけど、そのほか少青(シャオチン) という魚の精やパンダなんかの動物がでてき て本当にアニメ向けなんですね。

TA. ライブ・アクションもつかわれていまし たね。

Daikubara. ライブ・アクションでつくるという ことで、ボクと岡部さんと橋本さんの三人で 当時の東映ニューフェイスの中から、写真で 白娘のイメージに似た人を選んだわけですけ ど、それが佐久間良子なんです。許仙が水木 で、佐久間良子は「安寿と厨子王丸」 でも つかったんですけど、当時1か1でキレイで したよ。 そのころのライブ・アクションていうのは 実写で撮った動きを一コマ一コマ、まあ二コ マの場合もありましたけど、動画用紙の大き に拡大して写してもらい、それを作画した わけなんです。何コマ目の動きはどうか、と いうことは、すぐわかりますしね。ただ漫画 映画ですから、それをそのままトレースする のではなくて、顔を大きくしたり、足を短く したりデフォルメしていくわけなんです。い まは、技術的にもうまくなっていますから、 その必要もないのでしょうが、それでも動き なんか、とてもいい勉強になりましたね。ま あ、そのころはお金もかけてまして、実写を 1本つくれるぐらいのライブ・アクションを 撮ってました。いまじゃ、とてもそれだけの 手間ヒマかけてつくるということは無理でし ょうね。

はじめてのシネスコ作品 「少年猿飛佐助」

TA. そのあとの作品は?

Daikubara. つぎの年の昭和34年に「少年猿飛佐 助」をつくってます。これはアニメとしては、 はじめてのシネスコなんです。ワイドですか 動画用紙が倍になるというか、横長になる わけなんですね。それまでスタンダードばか りやってましたから、はじめはすごく描きに くかったです。ある意味では、ワイドにする ということが観客を呼ぶことにつながるんだ と思いますけど、実写なら、〝アラビアのロ レンス”などのスケールの大きな作品には、 うってつけなんでしょうけど、アニメの場合 はちょっと違いますからね。といいますのは 作画の方からいいますとね、絵っていうのは 横長に描くということはあまりなくて、ワイ ドというのは変形なんですよね。だいたいが スタンダードサイズなんです。でも横へ走っ ていくシーンなどは、それなりに臨場感がで ますし、いい面もありましたけど、だから高 い山に登るシーンなどは、たて長の画面にし たら面白いですよね(笑)。とにかく「猿飛佐 助」は横長にする必要はなかったという気が してますね。 そのあとの「西遊記」もそうですけど、「少 年猿飛佐助」以降はみんなシネスコでつくってます。

TA. 「西遊記」のあとの作品が「安寿と厨子 王丸」ですね。

Daikubara. 「安寿と厨子王丸」はとてもリアル な作品なんですね。劇映画でもできる素材で すから、劇映画に近いアニメーションだとい えると思います。写実というのは、作画にと って基本ですから、絵を描く人間にとっては デッサンなんかとても勉強になるんですよ。 写実であっても、アニメですから、デフォル メして、動きも違ったものにしていくんです けど、リアルな作品であればあるほど、デッ サンの狂いとか、動きの悪さが目立つんです。 それだけに、この作品は、時間もかかったし 難しかったという印象があります。

キャラのまとめ役が必要に なり作監のシステムができた

TA. 出版されている東映動画全集を見ますと 「西遊記」で森やすじさんといっしょに作監 ということになっていますけど。

Daikubara. そうなんですけど、たしか森さんは 作監だと思うんですけど、僕は原画だったよ うに記憶してます。

TA. そうしますと、はじめて作監をやられた 作品といいますと?

Daikubara. 「わんわん忠臣蔵」からですね。

TA. 作監を担当された感想は?

Daikubara. 原画をやっていたころと、そんなに 違わないですよ。その当時の長編は、原画や 動画のアニメーターが七〇人ぐらいいまして 原画は、七、八人いるわけなんです。もちろ んはじめに、全体を統一するためにキャラク ター設定表をつくるんですけど、原画担当者 の個性が、それぞれ違いますから、それを修 正して統一する、いわゆるまとめ役が必要に なってくるんですね。それで作監というシス テムができてきたんだと思います。

TA. それ以前は、どういうシステムでやって いたのですか?

Daikubara. 作監がなかった前は、ばらばらでや っていたのかというと、そうではなくて、そ 以前にも、作監という名称ではなかったで すけど、修正したりまとめたりすることは、 やっていたわけなんです。東映動画の場合は ボクと森さんが分担を決めて、やっていたわ けなんです。その方法は、とてもうまくいき ましたね。一人でやるよりも、二人でお互い に個性をだしあって、それぞれの得意のキャ ラクターを担当することで、いいものができ る場合があるんですね。キャラクターにそれ ぞれ個性があるように、七人だったら七人の 原画家が、各キャラクターを一人ずつ担当す るということも考えられるわけですけど。

TA. キャラクター制ということですね。

Daikubara. ええ、それもやってみようと思った ことはあるんですけど、たとえば、あるシー ンにAというキャラクターとBというキャラ クターがいたとして、そこにC、Dというキ ャラクターが入ってくるとすると、原画を描 くのに、アニメーターのところへもっていっ て、つぎのアニメーターに渡して、またつぎ に渡すというように、とても時間がかかるわ けですよね。そんなんで能率的でないために やめたわけなんです。

「技術は幼稚でものんびり 楽しくやっていた」

TA. いまは、テレビ・アニメが全盛なのです けど、大工原さんも初期のテレビ・アニメに は参加されてますね。

Daikubara. 月岡(貞夫)くんがやった「少年 「ケン」からテレビがはじまって、それからテ レビが多くなりました。ボクも、「ゲゲゲの鬼 太郎」とか「風のフジ丸」なんかをやりまし た。それと「デビルマン」もちょっと手伝い ましたね。それほどテレビはやってないんで すよ。 とにかくテレビのアニメが放映されるころ から製作本数もふえてきましたし、一つの 作品でも短い時間で多くのスタッフをつかっ てつくるようになって、だいぶそれまでとは 違ってきました。

TA. いまのブームを目のあたりにされますと 隔世の観があるでしょうね。

Daikubara. ええ、カラーひとつとってみてもね。 はじめのころのカラーっていうのは、カメラ に三色のフィルターをつけて、同じカットを 三回撮影したわけですからね。だからフィル ムが三本できるわけですよ。それをあわせて 一本のフィルムにプリントして天然色といっ てたんです。カメラもまだ手回しでしたしね。 ワンカットまちがえたら全部やり直しでしょ。 露出だってまちがうと大変だから、とても神 経をつかったものでしたよ。 まあ、いまは、むかしと違ってプロダクシ ョンの数も増えましたし、テレビの視聴率が 大きな比重を占めて作品を左右するようにな り、競争になってきていますよね。だけど、 むかしは、競争はなかったですし、一週間に 一本というペースじゃなく、長編ですから一 年に一本いいものをつくるということで、楽 しかったように思いますね。

TA. 技術的にはどうですか。

Daikubara. いまのほうが技術は上ですね。うま くて速いですよ。しいて欠点をあげるならば 物マネになりやすいということでしょうか。 「白蛇伝」でもボクらは若い人たちを教えな がらつくっていたわけですけど、動きも今の テレビ・アニメの水準からみると、たしかに 幼稚なところがあります。しかし技術的には 幼稚でも、スタッフが和気アイアイというの かな、いまのように明日の昼までに仕上げな くちゃということはなくて、のんびり、楽しく やってましたから、ボクはやっぱり、いまで も初期のころにつくった作品が好きですね。 それに劇場にかかれば、かならずもうかった という時代ですしね(笑)。

TA. 今日は、どうもありがとうございました。

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