1981
December
Feature Article [“Interview with an Anime Person”, The Anime]:
富山にいれば今でもナンバーワン
TA. いつもお忙しそうですね。
Kanayama. 相変らずです(笑)。いまシリーズ を2本やっているんですけど、 来年は休養宣 言をするわけじゃないですけど、一アニメー ターに戻って、ちょっと引いたところからも う一度アニメーションを見てみたいという気 持ちがあるんです。もちろん現場には残りま すけど、今の状態より少しセーブしましてね。 といいますのは来年の1月からある新聞 の日曜版に毎週劇画を連載することになった んです。その準備などもありまして……。
TA. そうしますとまたマンガに戻られるわけですか。
Kanayama. いえ、あくまでアニメーションを主流 としてやっていくつもりなんです。もうこの 世界で15、16年やっていますからね。ただこ このところへ来て、ガゼンマンガを描いてみ たくなりましてね。 りましたので、応募してみたんですけど。け っこう応募者が多くて、ああこれは無理かな って思っていたんですけど、僕の友人が強力 に推センしてくれまして、運よく決ったわけ なんです。 僕ももう42歳ですし、マンガを描けるチャ ンスっていうのはもう今しかない、これが最 後だなって思っていますから、全力投球で描 いてみたいですね。
TA. 金山さんはもともとマンガからスタート したわけですね。
Kanayama. そうなんです。僕のマンガ歴といいま すか、原稿料をもらって描くようになったの は20歳くらいからでしてね。はじめは、セン トラル出版というところから、単行本を何冊 か出しました。ちょうど貸本屋が全盛のころ でした。そのあと、そうですね30歳以上の方 ならみんな思い出があるんじゃないかと思う んですけど、「冒険王」とか「少年画報」「少 年キング」「少年マガジン」「ぼくら」なんてい う雑誌に何本か描いていましたね。
TA. マンガ家になるまでの経路といいますか それ相応の勉強をされたと思うんですが。
Kanayama. ええまあ、いろいろなチャンスやキッ カケがあったと思うんですけど、結局、僕の オヤジにそういう志向があって、その影響を かなり受けたからだと思うんですね。 僕は東京の市ヶ谷で生まれたんです。ちょ うど今の自衛隊の駐屯地の真ん前なんですけ ど、オヤジはそこで軍服の仕立屋をやってい たわけなんです。それで暇を見てはよく絵を 描いていたんですね。あとでわかったんです けどオヤジもその昔、青雲の志をもって画家 になることを夢見ていたらしいんです。結局 はかなわぬ夢に終ってしまったんですけど、 僕の体の中にもそういう血が流れていたんだ と思います。 家族や親類の中にも絵を描く人 間が多いんです。先祖代々そういう血統なの かもしれませんね。
TA. それでお父さんの描く絵を見よう見マネで?
Kanayama. ええ、それと家は下宿屋もやっており まして2階に学生さんが何人かいたんですけ ど、その中に画学生もいまして、話が古いで すけど0戦の描き方とか、いろいろ教えてく れましてね。自分から積極的に描くようにな ったのは、それからだったですね。 そして5歳のときに富山県に疎開しまして それから高校を卒業するまで、13年間そこで 過したんですけど、小学校、中学校と勉強の ほうは、自慢できるほどのものはなかったん ですけど、マンガとか絵はしょっ中描いてま して、もうこれだけは誰にも負けないって、 妙な自信みたいなものがありましたね。中学 時代は、校内新聞に四コママンガを描いたり してましてね。
TA. 高校を卒業されてその後は?
Kanayama. ええ東京へ出て来たというか、戻って きたわけなんですけど、そのときガーンとき たのは、僕が誰にも負けない、自分がナンバ ー・ワンだと思っていたマンガに自信がなく なったんですね。つまり東京には僕くらいの マンガを描く人間なんか、それこそゴロゴロ していたんですから(笑)。もし、ずっと富山 に残っていれば、ナンバー・ワンの気持ちで いられたんでしょうけど(笑)。
TA. 上京してすぐマンガ家の修業に入ったわ けですか。
Kanayama. いえ、僕は変なところがありましてね。 どうしてもサラリーマンになりたいっていう 気持が強かったんです。家が商売をやってま したので、そういう世界がどういうものだか わかりませんから変に憧がれていましたね。 それで日野ディーゼルとか何社が受験して みたんですけど、これがことごとく落ちまし て、仕方ないので当時千葉県の市川にあった 東京精鋭という、機械部品の鋳型をつくる会 社に入りました。もちろん無試験だったです けどね(笑)。
TA. どういう仕事をされていたわけですか。
Kanayama. まあ簡単にいえば”カマタキ”ですね。 それも毎日、毎日ね。言ってしまえば簡単な んですけど、これがなかなかキツイ仕事でし て、夏などは50度くらいになるんです。もち ろん塩をナメナメ仕事するんですけど、それ でもものすごい汗が出て、塩っ気がすぐなく なっちゃうんです。それと今でも残っていま すけど、ちょっと油断するとすぐ火傷をして しまうんです。とにかく今考えると信じられ ないことをやっていましたね。おそらく今だ にやっている方がいるんだと思いますけど・・・ でも、やっぱりひとつの経験としてやって てよかったなって思いますね。今なんかでも アニメの仕事をしてて「ああ、ツライな」な んて思うことがあるんですけど、そんなとき カマタキ時代”のことを思い出すんです。
仕方なくやったアニメに感動!
TA. 鋳型の会社からマンガ家へ移行されたキ ッカケといいますと。
Kanayama. 僕は会社では、あまり優秀な人間じゃ なくてよく失敗して怒られましたし、まごま ごしてると自分より若いヤツからぼろくそに いわれるんですね。そんなことで半ばヤル気 がなくなっていたとき、たまたま入った工場 の近くの古本屋で、斉藤たかおさんなどの劇 画を見まして「あっ、これだ!」と思ったん です。自分にはこれしかないってね。忘れて いたマンガ家志望の気持ちが頭をもたげてき たわけです。 それでモーレツに描きたい衝動にかられて 描きあげて、たしか〝摩天楼”という出版社 だったと思いますけど、原稿を持ちこんだわ けです。そうしたらスンナリ採用されまして ね。原稿料は確か80円くらいだったと覚えて いますけど、うれしかったですね。これでマ ンガ家として出世し、白い大きな家を建てて なんて単純に考えたりして(笑)。現実は、ア パート代も払えない状態だったんですけれど (笑)。
TA. マンガ家からアニメーターに転向するの は、いつごろどういう理由で?
Kanayama. たしか26歳のときだったと思いますね。 虫プロへ入ったのが。もちろんその当時マン ガの道一本でやっていきたいという気持ちは ありましたけど、結局才能がなかったんでし ょうね。それと現実的な問題として、さきほ どもいいましたように食っていけないという ことがありましたね。背に腹は変えられない といいますか。 ですから正直にいいますと、仕方なくマン ガの道をあきらめたということです。そんな 気持ちだからアニメの世界に入って、例えば 作監になってやろうとか、そういう野望のた ぐいは全然なかったです。ただ、今アニメー ターを志している人たちのためにいいますけ ど、やっぱりアニメの世界に入ってよかった なと思ってますね。それをいちばん強く感じ たのは、虫プロへ入社して、まず動画をやら されたんですけど、それが完成してフィルム になって映し出されたときですね。とにかく 驚いたし、嬉しかったし、感激しましたね。 何しろ自分の描いた絵が動くわけですから。 マンガでは考えられないことですからね。そ のとき「ウワーッ」て思ったあの感激があっ たからこそ、何十年もアニメをやってこれた んだと思いますね。
TA. またマンガを描かれるというわけですけ ど、アニメとマンガをご自身では、どういう ふうに区別していますか。
Kanayama. そうですね。自分の主張みたいなもの を思う存分だせるということでは、 ニメよりマンガだと思いますね。マンガのほ うが多分に個人プレー的色彩が濃いですから ね。そういう部分ではアニメに入った当初、 ずいぶん戸惑いましたし、シンドかったです ね。 アニメのよさというのは、ひと言でいえば 共同作業のおもしろさということに尽きると 思います。いろいろなパートの人と話し合い ながら、気持ちをひとつにして作品をつくり あげていくという、プロセスそのものにも魅 力がありますし、自分の能力の及ばないとこ ろは他人に手伝ってもらい、またその逆もあ るし、すごく人間的な作業だと思うんですよ。 まあ仕事のことだけでなく、”自分ひとり で生きているんじゃないんだ”ということが 最近になってようやくわかりかけてきたんで すけど、それはやっぱり長い間アニメに関わ ってきたお蔭だと思うんです。
忘れられない長浜忠夫氏との出会い
TA. 虫プロ時代の話を伺いたいのですが。
Kanayama. そもそも虫プロに入ったというのは、 僕の兄貴が当時東映動画でアニメーターをや っていたんですけど、その友達に勝井千賀夫 さんがいまして、 勝井さんが僕をプロに紹 介してくれたわけなんです。 当時の虫プロといえば全盛期で、社員だけ でも300~400人くらいいたんじゃない かなあ。入社するだけでもけっこう大変だっ たらしいんですよ。僕ももし試験を受けてい たら、おそらく落ちていたでしょうけど、幸 い、そういういきさつで無試験で入れまして ね。荒木伸吾さんもそのころ一緒に入った人 なんですけど、彼も無試験で入ったっていっ てましたね。
TA. いちばん初めの作品は覚えていらっしゃいますか。
Kanayama. もちろん覚えています。「ジャングル 大帝」です。そのあと劇場用作品の「展覧会 の絵」、テレビシリーズの「リボンの騎士」 をやって4本目の「わんぱく探偵団」で初め 作監をやったんですね。
TA. 4本目とは、またずいぶん早いですね。
Kanayama. そうなんです。実ははじめは、今竜の 子にいる宮本貞雄さんが担当されるはずだっ たんですが、都合でできなくなり、急きょ僕 にオハチが回ってきた、というイキサツがあ ったんです。まあいちおう作監ということに はなっていましたけど、はじめは何をどうや っていいのかさっぱりわからなくて、ずいぶ キツイ仕事だったですね。たしか監督がり んたろうさんで、杉野昭夫さんが原画を描 いていました。
TA. そして昭和45年に虫プロが倒産してフリ になられたわけですね。
Kanayama. ええ、虫プロ最後の作品が「新造人間 キャシャーン」でした。 フリーだったのは2 年くらいなんですけど、その間「新・みなし 「ハッチ」「小さなバイキング・ビッケ」「ジ ムボタン」「ラ・セーヌの星」「わんぱく 大昔クムクム」などの作品をやりました。 そ 昭和5年に日本サンライズに入ったわけ です。 サンライズでの第1作が「超電磁ロボ コンバトラーV」でして、この作品で初めて 長浜忠夫さんにお会いしました。 いろいろな 意味で忘れられない作品でしたね。
TA. 長浜さんの想い出というのは、ずいぶん あるでしょうね。
Kanayama. ええ、あの方からいろいろな事を学び ましたし、ロボット・アニメのファン層の土 台を築きあげたのは、あの方だと思います。 「ガンダム」にしろ、ほかのロボット・アニ メにしろ、やっぱり長浜さんの「ボルテスV」 や「闘将ダイモス」があって、それらが出て きたという感じがありますしね。 ロボット・ アニメの中に、あれだけのドラマ性と人物設 定を持ちこみ得たのは、長浜さんならではだ と思います。今では、それが当り前のように なってきていますけど。それと、いいすぎか もしれませんけど、ファン層を拡げたという ことは、結局アニメ雑誌の出てくる背景をつ くったということだって言えるんじゃないで しょうかね。とにかく、すごい人でした。
TA. 金山さん自身もサンライズへ入ってから ロボット物が中心になってくるんですけど、 ご自分の好みとしては、ロボット物はどうな のですか。
Kanayama. 本当のことをいいますと、僕がいちば んやりたいのはファンタジックなものなんで すね。ただ、ロボット・アクションというの は描く側にとっては、たいへんな仕事ですし それだけ勉強になるんです。例えばAパート Bパートがあるとしますでしょ。そうする そのふたつの間には必ず闘いがあるんです ね。少ないスペースの中で、いかにドラマを つくりあげていくか、ということで考えるわ けです。それと戦闘シーンにしても、さまざ まなパターンが要求されますから、こちらも オチオチしていられず、常に勉強してあらゆ る技術と能力を駆使していかなくてはならな い。ワンパターンでは必ず飽きられますから ね。 それと作画の力をつけるには、シリーズも のをやることですね。つまり時間がないとこ ろで最高のものをつくらなければならないわ けですから、それだけ磨かれるわけです。 「ボルテスV」や「闘将ダイモス」がそうだ ったんですけど、やっぱりあの作品に関わっ たお蔭で、ずいぶん力がついたなあっていう 実感がありますね。
格好つけず、ムリをせず、一生懸命
TA. 長年アニメをやってこられたヒケツなどありますか。
Kanayama. そうですねえ。今でもそう思うんです けど、やっぱりいちばん大切なのは緊張感じ ゃないかってね。とくにシリーズものの場合 それがいえると思うんですけど、いいアニメ ーターの条件といったらおこがましいですけ ど、いかに緊張感を持続できるだろうか、と いうことですね。 それとやっぱり体力は必要だと思いますね アニメーターには。どうしても僕らは机に座 りっぱなしで仕事をするでしょ。 それじゃあ 健康にもよくないし、いいアイデアだって浮 かんでこないと思いますから。体を動かす というか息抜きは絶対必要だと思いますね。
TA. 金山さんも現在、何か運動をされていますか。
Kanayama. ええ、もともと僕は運動が好きで、 う少し運動神経が発達していたら、体育の指 導員になりたかったくらいですからね。今で もそういう夢があります。 そんなわけで今でも、サンライズの野球チ ームに入っていますし、これはもう虫プロ時 代からですから1年くらいになりますけど、 マラソンを続けています。所沢の走友会とい うクラブに所属していまして、暇をみつけて は、1日6㎞程度ですけど走るようにしてい ます。あまりガンバリすぎると走ったあとで 眠たくなって仕事ができませんから、そこは 適量でね(笑)。
TA. ものをつくる上で、運動とか息抜きとい うのはやはり必要なんですね。
Kanayama. 絶対必要ですね。自分のことで申し訳 ないんですけど、今、毎週名古屋のアニメ教 室(中日新聞社主催)で講師をやっているん ですけど、これがとても楽しくて、息抜きと いったら変ですけど、いい刺激になるんです。 といいますのは、週に一度、朝4時ごろに 起きて新幹線で名古屋まで行くんですけど、 このことが単調になりがちな仕事の中で、ひ とつのリズムをつくれるんです。それと人に 何かを教えるということが、自分も教わると いうか、自分の中にあるものを再認識できま すし、本来の仕事にもプラスになっていると 思いますね。 それと、長く続けるということでなく、い い作品にめぐりあいたいという気持が強いん ですけど、やっぱり共同作業ですから、いい 相手というか、互いに理解しあえる人と組め るかどうかということが問題になってきます よね。なかなかこればかりは思うようにいき ませんけど。そういう意味で息がピタリあっ てたのが「コナン」の宮崎さん、大塚さん、 「あしたのジョー」の出崎さん、杉野さん、「ガ ンダム」の富野さん、安彦さんたちで、本当 に少ない例ですよね。
TA. 現在もロボット・アクションが多いよう ですが、この先どういうふうに変っていきま すでしょうか。
Kanayama. 現在もうすでにそういう傾向にあると 思うんですけど、メカもどんどん複雑になっ ていくでしょうし、ドラマそのものももっと 複雑でリアリティのあるものが出てくると思 いますね。でもメカが複雑になってくるとア ニメーターが大変になってくるんですよ。昔 ディズニーは、自分の作品の中に虎はつかわ なかった。なぜかというと虎にはシマがある から、というエピソードがあるんですけど、 今のロボット・アクションは虎のシマなんて 問題ではないほど描くのに大変なわけなんで す。
TA. 今までやってこられた十数年間を振りか えられて、金山さんが今思っているアニメに 対する姿勢なり、方針なりを聞かせてくださ い。
Kanayama. わかりきったことかもしれませんけど 結局格好じゃないんだなっていうことですね。 自分が何だかわからなくなるほど、なりふり 構わず一所懸命にやるときはやることです。 それもごく素朴にね。これはどんな仕事でも いえると思うんですけど、格好を気にしてい たら、そこそこのことしかできないっていう ことですね。ですから、今アニメがずいぶん もてはやされていますけど、決してスター意 識をもってはいけないですよ。
1982
March
Comment [for Combat Mecha Xabungle, My Anime]:
「ザブングル」という作品は 、 きで見せていく芝居ですから、演 出の作画に対する要求が強くなっ てくるんですね。ですから作画作 業は非常に大変です。 具体的には、ウォーカーマシン というロボットが、うんと出てき て動きます。これが作画の立場か らは苦労の種なんですよね。僕が サンライズに入って一番大変な作 業をやっていると思います。 ユーモア・ロボットアニメって いうのは、僕もよくはわからない ですけど、絵が極端にふざけると かいうことじゃなくて、行動が面 白いということだと思います。3 話でいえば、ジャンが敵のマシン に追いかけられて、サボテンが群 生している所を、あちこちトゲだ らけになりながら逃げて行く。そ の姿がおかしいみたいなね。それ で、舌出したり、目玉が飛び出し たりの絵は描かず、必死になって 逃げる姿が滑稽だってことです。 僕らも見てくれる人に恥じない ものをと、全力投球してますので 大勢の人に見て欲しいですね。
