1978
September
Short Q&A [for Gatchaman II, Animage]:
Animage: 新ガッチャマン誕生について ?
Ippei Kuri:「本音をいうと、 ガッチャマンのいままでのイメージを残しておきたかったので 〈新〉 はやりたくなかったんです。でも、ファンや局の要望がとても多くて……。 で、 主人公をかえずに新メカを登場させました」
1979
January
Comment [Animage]:
夏休み前に封切りし、早すぎたというきらいもある。 宣伝もほとんどなく条件が悪かった。 茶の間では人気が高く、ガッチャマンはテレビ向きの作品なのでしょうね。
1980
August
Feature Article [“Interview with an Anime Human”, The Anime]:
「海底大戦争」で 久々の現場登場!
TA. 九里さんは現在、竜の子プロの専務取締 役をなさっておられますが、最近は制作現場 のお仕事はなさらないのですか。
Kuri. 管理職としての仕事の方がけっこう忙 しいので、ひとつひとつの作品に関しては現 場に出て直接タッチするということは少なく なってますね。長年現場でやってきたので少 し淋しい気持もしますが、ま、現在は後輩を 指導するという意味を含めて、すべてに対す るアドバイザー役というところですね。
TA. でも 「海底大戦争」では総監督を・・・。
Kuri. そうなんです。久々に現場に出て、企 画の段階から先頭に立ってやりました。竜の 子プロの場合、連続アニメには長いものが多 いでしょ、例えば「ガッチャマン」とか「タ イムボカン」等のシリーズものなんかがそう ですね。ですから、時間的にどうしてもそれ にのみたずさわるということができなくって …。 でも「海底大戦争」のようなものは単発 ですから、これからは、こういういいものを つくるためにドンドン現場に出てガンバリた いと思っています。僕だってまだまだ若い人 たちには負けたくありませんからね(笑)。
TA. たいへん心強いですね(笑)。ところでこ 「海底大戦争」は、いつ放映されるんです か、見どころなんかも教えてください。
Kuri. 放送日はまだ正式には決っていないん ですが、おそらくお子さんたちが夏休みに入 った7月か8月頃になると思います。キー局 は日本テレビで、30分もののスペシャルアニ です。 音声多重放送でオンエアされるというのも 特徴のひとつですね。見どころといいますと いろい カニックが出てくるんですが、 絵的にそれらの重量感が出せたということが あげられます。普通、色のきれいさは出せる んだが、重量感・質感といったものはなかな 出しにくいんですね。今回は「これがアニ 「メか」と驚く程に重量感のあふれる場面がた くさんでてきます。ぜひご覧になってください。
マンガのプロダクシ ヨンが竜の子の前身
TA. とても楽しみですね。ところで、九里さ んがアニメーションの世界に入られたキッカ ケは何だったんですか、そこいら辺のことを お話ししてください。
Kuri. もともと僕は雑誌にマンガを描いてい たんです。少年マガジンが創刊されてから一 年目ぐらいに連載した「マッハ三四郎」とい う作品があったんですが、これがロングラン の人気マンガになりましてね。少しおくれて 少年サンデーの「大空の誓い」とか・・・。トン トントンという感じで結構忙しくなってきた んです。 ちょうどその頃、挿絵家だった兄(編集部註・ 竜の子プロ初代社長の故・吉田竜夫氏。九里 一平さんの長兄にあたる)が、アルバイトで やはりマンガを描いていたんですが、僕が少 忙しくなってきたもんで、あい間をみて僕 の作品を手伝ってくれたりしたんですね。も ちろん当時の僕にはアシスタントを雇うよう な余裕もなかったので、たいへん助かりまし た。兄は僕よりも絵がうまかったし、絵柄も 僕の絵と似ていました。 そんなある日「ふたりで別々のマンガを描く より、絵柄をあわせて共同で作品をつくった 方が、なにかといいんじゃないか」というこ とになりましてね。そこに次兄(竜の子プロ 現社長・吉田健二氏)も加わって、三人の力 を結集し、お陰様でいろいろな作品をこなし てきたわけです。いってみれば、これが現在 の竜の子プロの前身に当るわけですね。
「鉄腕アトム」に 刺激されて・・・
TA. なるほど、今でこそ雑誌マンガのプロダ クションはめずらしくありませんが、兄弟三 人で力をあわせて作品をつくるというのは、 そのはしりだったんでしょうね。さて、雑誌 マンガからテレビアニメーションへ移られた 直接のキッカケというのは何だったのですか
Kuri. 昔からディズニーなんかは観ていたん ですが、一漫画家としては大勢の人を指揮し てアニメをつくるなどということは夢のまた 夢みたいな気がしたものです。 それが、手塚治虫さんが日本初の国産テレビ アニメをやったでしょ。昭和38年に放映され 「鉄腕アトム」ですね。その頃、雑誌では それこそ隣り同士で載っている人のテレビ・ アニメですからね。どうしても注目せざるを えないですよね。毎回そうやって観ているう ちに、段々とあこがれのまなざしで観るよう になってきたんです。相当刺激されたわけで すよ。 手塚さんは天才ですからね。しかし彼は一人、 われわれは三人いるじゃないか、ひとつアニ メをやってみようじゃないか、ということに なったわけなんです。マンガ仲間だった笹川 ひろしさんを誘いまして、いろいろ検討した 結果、宇宙ものがいいだろうということで、 さっそく「宇宙エース」のアニメ化を手がけ たんです。たしか昭和38年の10月でした。
TA. 今と違っていろいろとご苦労があったん じゃないかと思いますが・・・。
Kuri. そうなんですね。今でこそ、たとえば 竜の子から出た人たちでも比較的簡単に下請 けの子会社やプロダクションをつくっていま すが、当時としては全く新しいジャンルの事 業でしたし、今の感覚とは全然違いましたか らね。当時としてはすごく冒険でしたね。
TA. 当時のエピソードなどを。
Kuri. いま考えてみるとバカげたことなんで すが、当時の僕たちは商売感覚というよりも 作家根性みたいなものが旺盛だったんですね。 それで、作ったものはわれわれのものなんだ というような考え方を持っていたんです。と ころが作品というのは、ま、いまもそうなん ですが、買い取りの状態でしてね。そんなの ではつまらない、ということで、せっかく作 った「宇宙エース」を局側に渡さないでひき あげてきたこともありましたね。ですから「宇 宙エース」に限っていえば、でき上ってから 放映されるまで一年近く間があったことにな るんです。で、当初はアニメづくりと併行し 雑誌マンガの連載もやっていたので、今思 えば、大変忙しかったですね。
忘れられない 「みなしごハッチ」
TA. その後、竜の子プロのあゆみとともに、 たくさんの作品を手がけてこられた九里さん なんですが、いちばん印象深いものをあげる とすれば、どの作品になりますか。
Kuri. ひとつあげろといえば、やはり「みな しごハッチ」(昭和45~46年)ですね。この作 品にはのめりこみました。当時の社会性にマ ッチした作品でしたね。そのころ、ちょうど 高度成長期で子供たちもカギッ子時代。また 教育ママが出た時代だったんです。いわゆる ツメコミ教育の最たる時代だったんですよ。 子供に感情がない、涙を知らない、情操教育 的なものが欠けているんじゃないか、という ようなことが社会問題にもなったころなんで すね。あまりにも淋しいこういう情勢のなか 僕たち自身も「このままでいいわけがない」 という具合に、世の中に疑問を持っていたん です。そこで子供たちにメルヘンを与えよう という気持でもってこの作品をつくったんで す。そういう意味では、われわれのポリシー が本当に芽ばえたという印象のある作品でし たね。
TA. アニメの技術面でもいろいろと変革があ ったかと思いますが、その点で印象に残った 作品もあると思いますが・・・。
Kuri. そうですね。そういう意味からいえば 昭和46年に作った「アニメンタリー決断」と いう作品が印象深いですね。これは、太平洋 戦争のことをドキュメンタリータッチで描い アニメ作品なんですが、撮影段階でのカメ ラワーク等、超リアリズムの方法などを駆使 したりして、技術的には当時としては他社の ものよりも数段とび離れていましたね。この 時期、技術的にものすごく発展しましたね。 業界でも独走していた感じです。T社などは 恥じらいもなく教えて欲しいと申し込んでき ましたしね。
アニメは非常に 地味な仕事です
TA. 最近はどうなんですか。
Kuri. 別段、おごった意識でものをいうわけ ではありませんが、最近では当時のスタッフ も独立したりして竜の子プロの個性が流出し 技術面でのレベルはどこも平均化しています ね。それはそれで広い目でみれば大変いいこ とだと思うんです。ただ、くやしいことには そのような技術者をかかえきれない経済状態 うらめしく思いますね。アニメ制作のアレ は安いですからねぇ(笑)。
TA. そういう話を、各所で耳にしますが(笑)。
Kuri. アニメの連中はみんな非常にひたすら でしてね。本来、アニメの仕事というのは、 そういう人たちが支えてくれて成立するもの で、地味な仕事なんですね。しかし考えてみ れば非常に技術のいる仕事なんですよ。大概 の仕事だったら10年も続けていれば一人前に 認められるというのに、アニメーターの場合 10年で一人前かというとそうでもない。苦労 の割にはめぐまれていない、という職業です ね。お金だけの問題ではないけれど、もう少 報酬があってもいい仕事だと思いますね。
TA. 最近のアニメブームについてはどう思 いますか。
Kuri. ブラウン管のお陰でブームが生じたん ですがね。先程もいったように、一時、業界 自体がひどくひもじかったんですが、そうい う時期がちょ よっと 過ぎたような感じはします ね。がむしゃらに作っていた時期を経て、今 では、いい仕事をしたい、いい仕事を残した いというふうに、ものを作る責任感というか 自覚みたいなものがでてきたようですね。舞 台さえあればいい作品がつくれるという希望 がわいてきましたね。
TA. さんがアニメづくりの上で心がけて きたことというのは・・・。
Kuri. 作品的にいうと、泣かせるためにつく るというようなことをしたくない、というこ とですね。同じ泣きでも、あたたかい涙とい うか感動の涙というか、つまりハーモニーな んですが、それを心がけてきました。 涙の中に笑いが広がってくるようなものです ね。これはマンガを描いていたときから変り ません。渋くても笑わせたい、どんなに苦し いときでもニッコリ笑いたい。自分自身が常 にそう心掛けているもので、そういう気持が 分身となって絵にあらわれてくるんですね。
TA. さんの尊敬する人は?
Kuri. 目標にした人は8歳年上の兄(註・前 出の故・吉田竜夫氏を指す)ですね。絵もう まかったし、ま、僕は親を早く亡くしました ので彼に対しては兄であり、父であり、友人 であるという感じですね。迷いなくついてい けた人です。 先生といえば彼だけですね。そ の他笹川ひろしさんとか宮本貞雄さん等、 品としても人格としても尊敬できる人に僕は めぐまれましたね。
TA. 最後になりますが、 こんごどんな作品を つくっていきたいですか?
Kuri. 夢夢に近いものとは違いますからね。 夢として話せば、そうですね。 ま、世界に通用 するという意味を含めて、やはり長編をやり たいですね。スタッフが「やろうじゃないか」 と集まって、一年でもいいです。ドロドロに なってやっとあげる。はじめがあっておわり がある。そしていくらの安らぎがある、とい うような形でね、ぜいたくなはなしですが、 そういうふうな仕事をしてみたいですね。も ちろんオリジナル、あるいは名作みたいなも のを、自分なりの発想を入れて、制作・プロ デューサー・チーフディレクターというふう にスーパースターとしてやってみたいなあ(笑)。
TA. 素晴しいですね。ぜひ実現して欲しいと 思います。今日はどうもありがとうございました。
1981
July
Feature [Animedia, “The Genesis of Animation”]:
週刊誌に連載したマンガの画風そのま まを、必死に動かそうと試行錯誤した
一九六〇年ごろのアニメ界は、現在の ようなアニメ専門月刊誌もなく、アニメ ファンもすくない創世紀でありました。 そのころスタートをきった僕のアニメ 人生が、アニメの歴史といっしょに歩み はじめた。といっても過言ではないでしょう。 それまでは、週刊誌の連載マンガを数 編・執筆していた僕にとってはアニメは 第二の人生でもあったわけですが、鉈で たち切るように週刊誌と縁を切ったわけ でなく、アニメ兼業で、しばらくはマン ガを描いていました。 さて、アニメ番組が三十数本も、ひし めきあっている現在の製作体制は、それ ぞれの専門スタッフが緻密に計算したス ケジュール・人員配 置・資材・経費・そ の他のデータのもと に合理的に進行して おります。 それにひきかえ、 僕のアニメ第一作の ころは、すべて計算 を度外視した製作方 法でした。 キャラクターにし ても、それまでの週 刊誌画風(「忍者部隊 月光」 「チャンピオン 太」など)そのまま で、しかも、そのリアール的なキャラク ターを動かそうと努力したのですから、 製作費を無視したやりかたなのは勿論の こと。はやく言えば(こわいものしらず) のシロウトアニメ産業で、金のかかるリ アールキャラクターに挑戦する無鉄砲さ でした。 しかし、それから数年後の「紅三四郎」 「科学忍者隊ガッチャマン」「キャシャー ン」「決断」などにプラスして、竜の子カ ラーを築いたその第一段階を作ったのか もしれません。 リアールなキャラクターを動かすには、 セル画の数も多く、アニメーターの技術 も高度を必要とします。そのころの僕た ち(故吉田竜夫社長をふくめて)は、い ろいろな作業をしました。いや、しなく てはアニメを製作できなかったのです。 キャラクター・絵コンテ・原画・動画 はもちろんのこと、背景・トレス・彩色 までもタッチしました。 余談になります が、第一作の「宇宙 エース」のときは、 シナリオを無視し 絵コンテをさき に描き、どんどん 製作を続行しまし た。それが完成し てからTV局より シナリオを提出し てくれ、と要請が あり、あわてて絵 コンテを見ながら シナリオを書いて 局へ届けたのです。 ごぞんじでしょ うが、アニメ製作の常識はシナリオ絵 コンテ・原画・動画・・・・・・という段階で流 れ作業をするのです。最初に書かねばな らぬものを、さいごに書くなんて、いま になって考えると不可能そのものでしょう。
一度、志したからには中途で後退は許さ れず、放映未定の作品を続々と製作した
絵画芸術・出版美術の面ではベテラン のプロフェッショナルぞろいの竜の子プ ロでしたが、アニメーションの世界にお いては、シロウト集団だからこそ、最初 のフィルムが完成してTV局や広告代理 店の方がたを呼んで試写をしたとき、同 席したスタッフたちは、苦心して作りあ げた画面を見て、その感激は狂喜そのも のでした。 それが、あまりにもオーバーだったの で来賓の方たちは 「サクラをつかっ て歓声をあげてい るのではないか?」 と、もんくを言い だしました。だが、 むずかしい画風な ればこそ。それが スクリーンに写っ て動きだした ということは何よ りも嬉しく、人前 だろうが、なんだ ろうが、オーバー に喜びの声をあげ てしまったのです。 僕たちの描いた絵が「動く喜び」から 「TV放映決定の喜び」になるまでは、 また大変な苦労が続きました。わが子よ りも可愛いい作品を一日も早くテレビの 画面に登場させたい気もちは、苦労すれ ばするほど、充満するものです。 現在の竜の子プロは、一週間に三本 (三十分番組を作っておりますが、 あ のころは全力をあげて一本を作っている のですから、それが、いつまでも放映され ずにいることは、心身ともに焦ってきた ものです。 思いだせば、あれは、たしか、富士ス ピードウエイにまで何回も行き、取材し て製作したスピードマシンアニメ・マ ッハGOGOGO”のこと第三者に 言わせれば「竜の子さん、レースカーア ニメは十年はやいンじゃないかね。 それ に金のかかるカラーフィルムにするなん て、無謀すぎるよ」と、忠告されました。 でも、いったん 志したからには中 途でやめられず、 無我夢中で第一話 第二話・第三話 と、続々製作しま した。だが、なか なか放映決定にな りません。一本製 作体制なので、ブ ラウン管に写らな い、ということは 収入ゼロというこ とで……。しかし ながら、アニメー ターたち社員に給 料を払わねばならず、アーチスト兼・経 営者の一員である僕は、さっそく資金繰 りに頭をなやますことになりました。 不 動産を売却して給料を払い、資材を購入 したり、その苦労は、今になってふりか えると、専門学校で(経営の勉強)をす る以上の実地特訓になりました。 昔の彫刻師や絵師たちのなかで名人か たぎのものが、金銭にこだわらず、気の むいたとき仕事をしていたことを、講談 などで聞きますが、それが、つくづく羨 ましくかんじました。 その「マッハGOGOGO」も、アニ メブームの現在とちがって、なかなかス ポンサーに認められず、都内の試写パー ティ場でスクリーンに写しながら、一生 懸命になって説明したことがありました。 ぼくたちの作ったすばらしいレースカ アニメです。このスピード画面を見て 下さい。マシンの轟音はすてきでしょう。 奇想天外なマッハ号のメカ装置、そして 主人公三船剛少年のかっこよさ・・・・・・と、 いうような紹介を暗い場内の来賓にむか って熱弁をふるい、企画・構成・ストー リーなども必死になって説明しました。 やがて、試写が終了してパッと明るく なったとき、場内を見わたすと、かんじ んのスポンサーさんの姿がみあたりませ ん。 映写中は場内が暗くてわからなかっ たが、いつのまにか帰ってしまったのです。
劇画の迫力をアニメに盛りこむ。新趣向 をこらすチャレンジ精神は忘れない!
(描いた絵が動く喜び)から(描いた絵 がテレビ画面に登場する喜び)になるま での苦労を味わっているうち、シロウ トアニメ集団の竜の子プロ(いいかえれ ば、僕自身が、しだい、しだいに、 アニメ専門家に成長していきました。 ウ ォルトディズニーの長編アニメを、くり かえし、くりかえして、おなじものを見に いったり、アニメ資料の参考書を買いあ さって、帰宅する交通費まで、つかいこ んでしまったのも、このころでした。 よく、いろいろな人より (アニメ三十 番組を作るのにセル画を何枚つかいま すか?)と質問されます。約四千枚から 五千枚のセル画を使用し、現在はトレス マシンを使ってセルロイドにトレスしま すが、あのころは、人間の手で全部トレ スをしたのです。 人海戦術で五千枚のセル画を描く。と、 いうことは、時間と費用の点で(ものす ごい)という言葉そのものの作業でした。 ようやく、一九六九年「紅三四郎」を 製作するころ、トレスマシンを使用する ようになり、三四郎ほか武術家の各種・ 秘技の動きの凄まじさを巧みに表現でき ました。これは何よりのプラスで、それ が最も効果的になったのは、太平洋戦争 をえがいた「決断」でした。 童話に登場するキャラクターと違って、 劇画の迫力を発揮できたことは、アニメ の革命とでも、いえるでしょう。 それと同時に、いろいろなアニメに関 する技術・器具などが改良されて、新し い作品への挑戦”がはじまっています。 〝挑戦!”僕は、これからも新しいアニ メへの挑戦を続けていきます。 新しい企 画・新しいキャラクター・新しいストー リーに挑戦して、三十分番組に、長編九十 分番組に、劇場アニメにむかい、創世紀 における、あのころの燃えあがる情熱を 失わず、がんばっていくことを、アニメ の神?(もし、神様がいるとしたら)に 誓うことでしょう。 いや、誓うも、なにも、そのような美 しい言葉で飾るより、現実的に現在の僕 は、徹夜でキャラクター設計図を描き、 新企画の構成を考えたり、資金・人員配 置・あれこれと忙しい日々を送っている。 ということは、創世紀のころと、まった しゃに むに く同じで遮二無二、アニメ界の、まった だなかに突進していくのである。
MINI MEMO:
●竜の子プロ・出発のころ アニメ製 作の技術がわからず、笹川、原(征太 郎)ら四人が老舗・東映動画に出むい て一から勉強した。今は昔語りだが….。 ●考証は、話に合わせるマンガ的な発 想が先行し、科学的なつじつまは、当 時新進のSF作家にきても らい、アイディア提 供をしていただい た。小隅黎、 故・広瀬正 両氏が中心 に手伝って下さった。 ●竜の子か亀の子かわからな ●資材を購入に銀座へ出向いて行っ た時のこと。そこの店主にいわれたこ とばがこれだった。なんとも、もの悲 しい・・・・・・思い出語りといえば、今、お しゃべりもできるのですがね。と、ほ ろにがい顔の九里一平だった。 ●主婦もひと役 はじめのころは、製 作費を節約するため、団地の主婦の手 を借りた。トレース、彩色などの専門 家を養成するヒマもなかったのでとっ 非常手段だった。 『宇 宙エース』百八十万円。 『マッハGOGOGO』 三百五十万円。当時の一 本当たりの製作費。 ●仕事は手分けして 竜 の子プロは、もともとマ ンガ家の集団だ。 笹川が ギャグ、リアルな表現は 九里というふうに、ロ テーションを組んで、ストーリーづく りにはげんだ。 ●ディスカッションはとことんまで● それぞれのパートを、各専門が担当す るようになったが、ライター、演出家 などの議論は時間がある限り行う。
